◆手をうごかす

ちょっと前に、辺見庸の『屈せざる者たち』という対談集を読んだ。そのなかで哲学者の串田孫一さんと対談しているのだが、串田さんは原稿を手書きで書くという。パソコンで文章を打つことに対して、串田さんは以下のように話す。

間違いを簡単に直せるでしょう。(略)途中でどんどん消していってしまうというのがね、罪の意識をみんな消しちゃっているような気がするんですよ。

『屈せざる者たち』より

そこから自動改札機のエラーで駅員に不躾な扱いを受けた経験を語りつつ、はたして機械が本当に人間を進歩させ、世の中を便利にしたのか、というトピックに入っていく。話を聞き終えた辺見さんは串田さんの行動を「身体性のある」と称したうえで、迅速便利な現代文明に向けてこう言い放つ。

機械に人間理性を代行させるのを当然のことと受け入れるから、言語は身体から離れて空洞化していく

『屈せざる者たち』より

機械がまちがえることなく完璧だという思い上がりが、却って人間の空疎さを増幅させているのではないか、そういったことをお二人は話しておられる。たとえば新幹線によって手に入ったのは速さで、便利さではないと。何倍も時間短縮をできるのに、なぜ人は昔よりもたくさん働いているのか。それは豊かさでも、進歩でもない。生まれた余白を奪っているだけだと。

対談はこの回がいちばんおもしろく、テクノロジーまみれで日々を過ごすなかで共感できることも多かった。思考の跡がきれいさっぱり消えてしまうことのこわさは、毎日パソコンで書いているとよくわかる。消したことを5秒後に「あ、やっぱり必要だったかも」と復活させたくなる。しかし、すでに記憶からは抜け落ちている。それだから手帳を使う。思考の種(エッセイで書きたいことや小説のネタなど)を書いて想像が広がってまた書いて、こんどは別の方へ行ってみる。こうすると、思考の道筋がのこる。これならパソコンに起こして途中で消してしまっても、手帳に足跡がある。ところで、手帳にある記録には、使われなかったネタも多い。拙作を読み返していると、完成品だけでは過程がわからないものもあるなと感じる。パソコンだけでやっていたら、きっとこのことにすら気が付かなかった。

身体性を伴うことの重要性をひしひしと感じている昨今、とどめの対談に出会えて幸運だった。大切だったり、だいすきだったりするものこそ、そういうふうでありたい。書く・切る・叩く……やはり人にアナログは必要だ。

今日も読んでくださり、ありがとうございます。まとまりのない文章になってしまいましたが、そうだな、動けるときに動かしておかないといけないなという使命感すら感じました。それくらいことばの力のある一冊でした。

コメント

  1. […] 辺見庸ずきのひとがいる。講演会にも行くほどの熱だ。彼女にすすめてもらった『屈せざる者たち』を読んだことを話すと、この本に続きのあることを教えてもらった。その名も『新 屈 […]

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