◆ひととひとと、その循環

職場に辺見庸ずきのひとがいる。講演会にも行くほどの熱だ。彼女にすすめてもらった『屈せざる者たち』を読んだことを話すと、この本に続きのあることを教えてもらった。その名も『新 屈せざる者たち』だ。

彼の書き綴ることばは、拙い物書きたるわたしに強烈なあこがれを感じさせる。どうしてこの人のことばはこんなにも熱があるのだろう。いっぽうでわたしのことばはどうしてこんなにも、空疎なのだろう。

辺見庸をすきで読んでいるひととは、なんだか仲良くなれる。何をかくそうお世話になっているアトリエ職員の方も辺見庸がすきで、その人からすすめられた『愛と痛み:死刑をめぐって』が、わたしの出発点だ。職場にいる辺見庸ずきのふたりも、なんとなく話しやすい気がする。

もうひとりの方に『屈せざる者たち』のことを話すと「『新・屈せざる者たち』をいっぱい持っているからあげるよ。」と言われた。しのびないと思いつつもう少し尋ねてみると「古本屋とかにポンと置いてあるとつい買っちゃう」そうだ。同じものをいっぱい持っているからといって、みんながみんな「保存用・観賞用・布教用」というわけではないようだ。

同じ日に、別件で豊島区の熊谷守一美術館をおすすめされ、「熊谷守一」の名前にぴんとくる。ちょっとググってみると、ちょうど展示原稿の担当をしていた池袋モンパルナスの画家のひとりであった。これは何かの縁だろうということで、翌日の休みに見に行った。小ぢんまりとしたよいギャラリーだった。

わたしは決して外交的なほうではないが、最近はこう、数少ないひととのやりとりと自分の行動がいい塩梅で循環している気がする。こういうときのほうが、エッセイのネタも輝いたものを見つけられる。自分の内へ内へと閉じていくのではなく、外へ外へと開いていく内容になるのだ。せっかくインターネットという「外」に向けて書いているのだから、生活や家事のことばかりではもったいない。

書き終えて、実際このエッセイを読んでくださっている方がどうお感じになるのかがすこし気になった。内へ内へと外へ外へ、読む印象も違うはずだ。とうぜん、それを引き出すのも書き手の手腕だ。めざす地までは程遠い。

今日も読んでくださり、ありがとうございます。うまく書けているかはまた別の問題で、いい材料でもまずい料理が爆誕してしまうのとおんなじですね。

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