◆読書はインナーマッスル

先週かいた「文章は筋トレ」のつづきになる。

筒井康隆の『パプリカ』を読んだ。精神病患者の夢に入り込み、発病の経緯をさぐって治療に導くという設定が目を惹き、手にとったのだった。前半で出てくる患者の治療シーンは「現実にはありえんやろ」とツッコミを入れつつ、おもしろく読めた。しかし、後半は医局内の派閥争いにフォーカスされていって、夢探偵要素がサブのコンテンツになってしまったような印象を受けた。あと、後半の展開はいささか駆け足だったような気がする。発刊当時(1993年)に「夢探偵」という目新しい設定を活かした物語なのだから、最後までその要素をふんだんに盛り込んでほしかったと生粋のゲーム脳として願わずにはいられない。

読んだ本に対して不満が出てくることはこれまでなかった。ぱっと浮かぶのは、日本語があまりにも難解すぎた立岩真也先生の『造反有理』(精神医療の本で、内容はすばらしいと思う。)くらいだ。周りのひとが読書家なのですすめてくれるものに間違いがないし、そもそもわたし自身がおかしな物語ばかりを生んでしまうので、きちんと出版されたところのものを気に入らない、というケースが少ないのだ。

しかし、今回「ちょっと微妙だったな」と感じたことはひとつの気づきを与えてくれた。人の書いたものでも、どうして微妙だったのかをきちんと分析できれば、自分が文章を書くときの地盤となる。これは前回の、自分の過去書いた文章を見直して修正する行程と似ている。書くときだけでなく、読むときにも修行ができるのだ。

書くのが自らの頭と手を動かして生み出すアウターマッスルの筋トレならば、読むときは自らの「書く」にそなえたインナーマッスルの筋トレだろうか。この両輪が揃えば、より文章力を効率よく鍛えられる。わたしは脳筋で、基本的に量的足し算思考をするので、こういう結論になる。

ここ数ヶ月、友人たちに自分の書いた小説の赤入れ(添削)をしてもらっている。へたくそな文章を少しでも底上げしたいという気持ちから依頼をしていたのだけれど、友人の「ひとの文章を赤入れするのは自分のためにもなるんです」ということばの意味を、ようやく理解できた気がする。わたしも彼らも、筋トレをしていたのだ。わたしのつたないツールで。

……もっと、精進せねば。

今日も読んでくださり、ありがとうございます。『パプリカ』は映画化されていて、本よりも映像のほうが物語のメディアとして映えるかもしれないなーと読んでいて感じました。気が向いたら見ようかな。

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