◆コンビニぎらい

ときどき立ち寄ることはあるものの、コンビニが苦手だ。時間を気にせずいつでも明るいのが不気味だし、店内の放送やレジから鳴る効果音が全体的に大きめなことも気になる。ところせましと詰め込まれた商品は規則性をもつものの、与えられたスペースに対して情報が過密すぎて処理できないときもある。何を買うか決めずにコンビニに行くと、ひとつのものを決めるのに人の数十倍時間がかかってしまう。
きわめつけは徹底的に機械化された店員の存在で、ひとによっては一連の接客に恐怖をおぼえることさえある。一定のタイミングで同じ声の張り方をする人などは特にそうだ。必要以上に大きなボリュームの「ありがとうございました!」は「一体このひとは誰と話しているのだろう。」と思わせる。同じ人間の姿をしていながら自らを捨てて業務に励んでいる姿を直視できず、わたしはコンビニ店員と話すときに目を合わせられない。いつも伏し目がちで必要なことを伝えており、そういった対応が彼らの機械化を助長することもわかっている。
とはいえ、コンビニ店員が機械化するのもやむない。そもそも彼らは忙しすぎるのだ。ほぼほぼ最低賃金で働く彼らの業務量は既に常軌を逸しており、そこに人間らしい接客を求めるのはあまりにも横暴である。そこに千差万別の客の襲来とあれば、普段見せている人間の部分など邪魔にしかならない。これは個々の店員に原因があるというより、こういう仕組みを求めた社会の要請こそが病的だと思う。
だがコンビニないし店員への恐怖はあるものの、コンビニのありかたが変わるべきだとは思っていない。村田沙耶香氏の『コンビニ人間』のように、とことんコンビニ店員に徹することで、コンビニと一体化していく自らに安心を覚えるという人もいる。いろいろな人がいていいし、いたほうがいい。それを一定の正義のもとで変革させようということはやぼな感じがするし、暴力的ないとなみである。
今日も読んでくださり、ありがとうございます。旅行先のコンビニで人間的な店員さんに会うとそれはそれで思いがけないので、ひるみます。

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