自転車通勤をはじめて以来、平日に電車に乗るのはアトリエに行く日だけになった。今日、電車に乗ったときの自らの緊張が増しているのに気付いた。全く混んでいない時間で、座席に空きのある状態にもかかわらず、そわそわとして落ち着かない。扉の近くに立ち、窓の外を見ていた。内を向いていると、人の目線が気になる。外を見ていれば少しは緩和される。筋肉を使わないと衰えるのと同じで、電車への耐性も乗る頻度が下がることで衰える気がする。
今日は、かねてからアトリエに関心を持ってくれていた職場のともだちを連れて行った。とても気に入ってくれて、安心している。また来たいと言ってくれたし、アトリエのメンバーも「またね」と言っていたから、お互い好感触のように見えた。
行きのバスも帰りのバスも、誰かと話しながら過ごすのは初めてだった。はじめはアトリエのこと、やがて彼の実践している企画のことを聞いた。彼の抱く野望は大きい。広く世界を見ているし、実践する力がある。

あっという間にアトリエに着いた。今日は空気がこもっているらしく、アトリエの扉は開いていた。メンバーの数人が「暑い」「暑い」とこぼしながら制作をしていた。
前回の終盤で約束をしたとおり、彼女にブログのアドレスを渡した。ことしの「ほぼ日手帳」についてきたどせいさんのメモを、おもしろい形だと彼女は笑った。たしかにどせいさんは変なところがふくらんでいて、おもしろい形だ。間の抜けた眉もいとしい。「ことばの刻印」と噺家さんのお礼をして、今日は別の席で描いた。というより、人が多いので広げるスペースがなかったのだった。水彩を広げるのもむずかしかったので、次に描く絵の下絵を小さなスケッチブックにつくることにした。
先週会えなかった方の制作している、虫の絵のことを聞いた。すると題材になっているという、トラピスト・ワンのことを教えてくれた。いつ話しても感心するのだが、この人はほんとうに、いろいろなことを知っている。積み重ねた時間と経験が、彼女を生き字引のようにしているのだろう。
ともだちと話しながら制作していると、前で制作していたAさん(よく遊びに誘ってくれるひと)に「御影さんは職場でひとりぼっちなのかと思ってた。なんか楽しそうに話してて、安心した。」と言われた。たしかに、いろいろな疑問をもちながら職場にいるという話ばかりしているのでそう思われるのもしかたがないし、実際職場にいるわたしがひとりぼっちでない保証はどこにもないという思いも頭をよぎる。去年よりなじんではきたものの、自分のいるべき場所だという気持ちは持てていない。うつろな器になっているような瞬間もままある。
ともだちに「前も話したけれど、このアトリエに来たいから、しごとを週五日にすることってハードルが大きいんです。」と言うと「御影さんはここに来たほうがいいよ。こっちでやったほうがいい。」と返ってきた。とくにお金に困っているわけではないけれど、週五日にしようかはときどき迷うことがある。結局「ナシ」で会議はまとまるのだけど。
それからわたしの病気の話をしていると、横で油絵を描いている方が「御影さん病気なの?健常者だと思ってたよ。」と言った。彼は最初にアトリエに来たころからよくしてくださっている方で、もう一年半くらいのつきあいになる。このアトリエに来たときは病気のことを話さなかったので、彼が知らなくても当然だった。職場と同じで、どう扱ってよいのか悩ましかったのだ。安心できる場としてアトリエが存在しているおかげで少しずつ話せるようになり、作品にも反映させるようになってきた。今では健常とか病気って誰のためにあるのだろう、と思うことがある。この境界を作った強者の理論なのだろうということで、今のところは落ち着いているけれど。ルールはいつだって強者が作る。社会の基本だ。何にせよ、自分の病気をどう扱うかというのは、自分の扱い方にも大きく関わってくるので、今こうしてアウトプットしていることが正しいかというとそれもあいまいだ。けれども安心・信頼できる人に隠しているというのも不誠実な気がして、今のような感じだ。
「たしかに今は元気寄りですけど、ちゃんと診断名があるんですよ。」と笑った。診断名があろうとなかろうと、ここの人たちは同じように接してくれる。Aさんが「御影さんはボランティアで最初きてたけど、なんかメンバーみたいになってるよね。」と言った。展示の前などしごとのあるときは手伝っているが、ふだんは絵を描いているし、そのことを「あなたはボランティアなのだから、手伝いをしてください。」と咎める人もない。「今日はなにかすることがあるの?」と先生に聞かれたとき「自分の絵を描きたいです。」といえば「そうなの。」と手放してくれるし「なにか手伝います。」といえば手伝いや制作が降ってくる。そういうところだ。
Aさんの言葉に対し「たしかにそうですね。わたしはこういう狭間な感じで、やっていきます。」と笑った。思い返せばいつだって、右と左のどちらにも立たない人生を送ってきたように思う。いつもすきまの細いところに立っている。どちらでもありどちらでもないというのは、どちらのこともわかるけどわからない、ともいえる。それは同時にわかってもらえるけどわかってもらえない、ということでもある。
そのあと先週支援・被支援についてお話した方が、駅前の書店で衝動買いした画集を見せてくれた。入江明日香という作家だった。オリエンタルな人間と花・街を組み合わせた、洗練された空間が素敵だった。日本画調のイラストだと思って見ていたので、終盤についていた制作風景でコラージュを手がけている写真を見て驚く。「コラージュならば実際の凹凸もあるので、ほんものを見てみたいです。」と言うと、横浜で個展をやる予定だというのを教えてくれた。検索すると早速出てきた。
入江明日香展 ー細密のファンタジーー
銅版画家なのか……。ちょうど来週は夏休みなので、調子がよければ平日に行ってみることにした。休日の横浜は一人ではたいへんつらい。ひらたくいって無理である。
合評は、先週調子が悪かったので合評はまとめて三つ出した。まず、去年の末から制作していた折本。満足いっていないものの熱がさめてきたので、いったん終わりにすると話した。「完成」ということばを使うには足りない気がしたから「終わり」と言った。そのあと、メンバーの一人が自分の作品を「完成じゃなくて終わり。完成しなくてもいいんだ。」と言った。きっと自分の作品もそういうことだろうなと思った。横尾忠則もインタビューかなにかで「未完成のままでいい。未完成を繰り返すのがいいんだ。」という話をしていたのを思い出す。

「折れ方で見えるものや見え方が変わるのがおもしろい」と言っていただいた。ともだちからは「御影さんの絵はかわいいけど、不穏な感じもしますね。」と言われた。あまりかわいく描いているつもりはないのだが、防衛本能なのかもしれない。月(黄色い所)の中にある眼球に関しては「卵子のようだ」と言われた。そのあと月の発生にまつわる学説「ジャイアントインパクト説」を教えてもらった。人に見てもらうと見た人の知識や世界のことを分けてもらえるので、自分の絵の見方が深まっていく。それがおもしろいから合評の時間はすきだ。アートは双方向のメディアで、感覚の交換(ともだち談。とてもすてき。)だから、自由な解釈があっていい。画一的な価値観を「いいね」というのは、少しわたしには堅苦しい。
次は先週の初音ミクを「友人が来るので描いてみたが、わたしの絵柄とはあまり合わなかった感じがします」と。すると「髪が緑でツインテールなら大丈夫だよ」とフォローをいただいた。
見直すとやはり絵柄とのミスマッチがすごい。
さいごに次に描きたい絵のしたがき。

冒頭で触れた、ひさびさの電車のエピソードから膨らませた。やはり一般車両の、向き合う席のかたちは苦手だ。眼球の配置と向きに悩んでいる。
帰りのバスではともだちに「バスは大丈夫?」と聞かれた。
「みんな前を向いて、視線が交わされないから大丈夫。それに、このアトリエに着くとわかっているから耐えられるのだ。」と答えた。少しだけわたしは眠って、夕暮れに時間を溶かした。
そのあとカフェでさらに話をして、別れた。一日のうちでこんなにたくさん人と話したのはひさしぶりな気がする。
長く濃密な一日だった。すぐに眠りに就いたのに、二時くらいに目が覚めた。雨が窓を不規則に叩く音だけが響いていた。