先週はアトリエの展示があったのだけど、よれよれで行けずじまいだった。申し訳なさがつのる。1年のうちでもっとも楽しみにしていることのひとつなのに、1日たりとも行けず、手伝えず、今年はなんだったのだろうという、そういう気持ちでいっぱいになる。
今日は今日とて睡眠をしっぱいしてしまい精神的に不調だ。殻の中に閉じているし、よそいきモードになれない。うまくニコニコできなかったり、しゃべるのがおっくうだったり、いろいろである。「また」、アトリエに行くかどうかで悩んでしまう。何もしない1日になることがいちばんよくないのはわかっているのに、調子がいまいちだと、どうもここで足踏みしてしまう。
うだうだと考え込んでいるうちに、先生がアトリエメンバーと電話をしていたときのことを思い出した。
「絵が描けなくても、アトリエに来たら。」
そこにいて話すだけでも、話すだけの元気がないのなら「そこにいる」だけでよいのだと先生は言いたげだった。そのことを思い出し、身支度をした。
なぜか午前中のバスに間に合ったので午前中のうちに到着した。いつもはお昼時になるというのに、調子と合致しないのはおもしろいところである。バス停にはアトリエの方もいて、先生もいた。「おひさしぶりです」と言った。かれこれ3週間あいてしまったのだった。
アトリエ行きのバスを降りるとメンバーの方に呼び止められ「きのう御影さんのブログを読んだの。文章がすごくすき。」と言ってくれた。それだけでなんとかここに来てよかったと思った。彼女も万全ではないようで、おんなじことを言っていた。「直接伝えられてよかった」と。ものごとの感想を伝えるのに、直接伝えられる機会は一体暮らしの中でどれくらいあるのだろう。とくに身の回りでわたしの文章を読んでくれるひとというのは多くない。尊いことばをいただいてしまい、恐縮した。
アトリエに着くと、いつもどおりだった。長らくいなくても、連絡がなくても、へんによそよそしかったり、悪態をついたりしない。そういった温かさがここにはあった。スタッフの方は「展示にもいなかったし、調子が悪いのかなって、みんな心配してたよ~。」とおっしゃっていた。わたしのような輩を気にかけてくれているというだけで、じゅうぶん満たされている気がした。
どうしてかはわからないが、職場の「心配」とアトリエの「心配」は、根っこから違う気がする。職場が金銭を媒介して契約された特別な場だからかもしれないが、どんなにいいひとたちでも、裏があるのではないかと疑ってしまう。幼稚園、学校、会社……そういった特殊な環境から放たれることばたちというのは、本当らしさを感じられない。演じている舞台のせりふのひとつのような、それが最適解であるかのような心地がするのだ。それが「社交辞令」にあたったりすることもあるのかな。むろん、職場でしゃべっているときの「わたし」も、適切な役を演じる俳優のひとりにすぎない。
少しだけ手伝いをして、お昼を食べて一休みしたら帰ろうと思った。帰るまぎわに前回薬と外来のことを相談した方にお礼を言った。アトリエを出る直前に、いつもおやつを持ってきてくださる女性がもみじまんじゅうを手渡してくれて、うれしかった。帰り道で包みをひらく。疲れにしみわたる甘さがひろがって、どろりとおちていった。
午後のはじまりのバスを降りると近所の学生らが道いっぱいに広がって談笑していた。ここは現実で、ただの平日のうちのひとつなのだと、はっとした。
読んでくださり、ありがとうございます。もう少しエネルギーが回復したら絵を描きたいです。