前回のつづきだ。わたしの通うアトリエにはボランティアの方が数名いる。わたしもそもそもはボランティアでここに来たはずが、今やじぶんの作品づくりをしていてあまり手伝いをしていない。しかしそんな人も「おもしろいからいいよ」と存在をゆるされる。ほんとうに、ゆったりとした場だ。ボランティアの概念を覆される。といいつつ、わたしはここのボランティアが人生初ボランティアなので、他所でボランティアのできる気がしない。まったく。

そんな多種多様なボランティアのなかに、美大を出て今も制作を続けている女性がいる。目がガラス玉のようにうつくしく、物静かで、それでいて話しやすく、わたしは彼女がだいすきだ。

彼女はわたしとは全然ちがう。そもそも美術の教育をしっかり受けているので描き方のロジックがあるし、持っていることばの種類も、ものの感じ方もぜんぜんちがう。

彼女は先週の合評で出した2枚を見て「すごくなにか、センスを感じる。どういうふうに空間をつくっているんですか?」と尋ねてきた。わたしはぼんやりとした世界のイメージがあって、描いているうちに 勝手にできあがってくると答えた。おもえば文章もそうで、イメージから手を入れて入れてととのえて、ひとつの作品ができあがっている。料理もなんとなく食材同士のイメージがあり、組み立てているうちに完成図がみえてくる。読書にしたって、感想はいつも全体のイメージを捉え、そこから膨らませていくことが多い。細部の表現がどうだったとか、あんまりそういった記憶を残せないのだ。

絵も、それとおんなじなのかもしれない。いつだって「何の絵を描いたんですか?」と聞かれると、回答に困る。今回の2枚もそれぞれ「マッキーで塗りたかった。青い女は重ねて、ひとりのようでふたりで、ふたりのようでひとりだ。樹を描きたかったが、結局空と海になりました。」、「1枚目が色で埋まったので、空白と流れを意識しました。」としか言えない。べつに「何か」を描こうとして描いていないのだ。

それを聞いて、彼女は驚いたふうだった。気になったわたしは「どういうふうに空間をつくるんですか?」と聞いてみた。すると「黄金律に沿ってつくるんです。」と迷いのない返答があった。三角形でもなんでも、完璧なかたち、すなわち黄金律というものがある。それに沿って形を組み合わせて組み合わせて……作品ができていくというのだ。

わたしはピタゴラスの理論を思い出していた。音楽も宇宙の秩序も、数学的調和によって成り立っているというものだ。形も、音もすべて数が統べる世界。黄金律によって生まれる作品。まさに、ハルモニア・ムンディといえないだろうか。壮大な宇宙の中に散りばめられた数字、そのなかにがらす玉のような彼女と、がらすを削った彼女の作品が宇宙空間できらきらと輝いている……そんな光景が思い起こされた。

一方で、わたしに美術の学はない。わたしの宇宙はわたしのものでしかなくて、とても自閉的だ。ぼんやりとしたイメージたちがこれまたぼんやりと暗黒のなかをあてどもなく浮遊している。お互いがぶつかりあっても気づきもしない。混沌とした薄い膜のようなイメージたち。浮遊しているなかで不意にどれかが掴み取られ、形を変えられ、現世で形に、「作品」になっていく……。そんなイメージが頭の中を浮遊した。「ぼんやりとしてつかみどころがない。」わたしそのものを言い当てられたような感覚。

ぜんぶを伝えるのは話がもうれつに長くなってしまうので止したのだけれど、とにかく「とても、壮大で、宇宙的で、かっこいいです!」と要点だけを伝えた。

彼女と話すと、まったく異なる銀河系がぶつかりあうような心地がする。わたしは彼女の星の話を聞くのがすきだし、彼女がわたしの、行先もなく居所もない宇宙の話を聞いてくれるのもすきだ。そういったぶつかりあいによる刺激もアトリエのもつ魅力のひとつである。彼女にかぎらずこういった衝突と化学反応はしばしば起きるのだけれど、なんとなく彼女と話すと毎回すこしだけ深い地層を掘り下げられるような感じがして、おもしろい。あまり頻繁に来られない方なので、また会いたい。

読んでくださり、ありがとうございます。話しているとほんとうにわたしは「イメージのひと」なのだと思います。