◆バッシングについて

 なにかの事件があって、容疑者が精神障害者であると報道されるのが目立つようになった。それに乗じてインターネットでは過激な意見をたびたび目にする。そういったことに興味のあるわたしとしては目にあまるものもあって、当事者がみれば深く傷つくようなものも散見される。
 これから書くことは決して容疑者の擁護ではない。現に傷ついたり、亡くなったりする方がいるのは事実だ。しかし、精神の病であることが事件のすべての鍵になるような言い方というのは、果たしていかがなものだろうか。全責任が病にあるのか?それだけではどうも納得いかない。偏向した報道をするメディアもそれを受ける人も、病気に対するイメージだけが先行して、病をもった個々人を置き去りのまま、ものをしゃべっているようにみえる。

 大事なのはその人が病かどうかより、どういった経緯で犯行にいたったのかという道筋だ。同じ病気でもそうなった経緯は人それぞれだし、とうぜん、事件と病気に関係があることもないこともあるだろう。
 犯罪は社会を映す、とよくいう。お金もなければ居場所もない。だからこそ、高齢者の窃盗、再犯があとを絶たない。投獄されているほうがよっぽど極楽だと再犯した人が語るのを読んだ。彼にとって、外の世界はどれほどの地獄なのか。
 少し前に、連続殺人犯の記録を読むのに没頭していた時期があった。生育歴の悲惨なものが多く、気が違う瞬間があっても無理もないなと思わされた。のんきに暮らしているわたしの想像を超えた苦しみが、それぞれの人の内にある気がした。そこに精神の病が併記されているのも、その人の道筋を辿れば自然な結末だった。犯罪が社会を映す鏡であれば、こころはその人の来た足跡を映す鏡だ。

 そのひとの足跡をないがしろにして「精神障害者である」というイメージや結果論だけでものを語るのは、ひどく浅はかである。ものごとを知ろうとしないその姿勢が、本来豊かなはずの社会を狭く、貧しくしているのかもしれない。こうしてさまざまなあり方が圧迫された社会には、怒りと不満がわだかまる。
 これが現代という時代の抱える「病」なのかもしれない。これに対する処方箋のひとつは未知のものに立ち向かうこと、「知ろうとすること」ではないだろうか。
 しかし一方で、差別は心の問題だといわれる。知識があったとしても、心がそれを受け入れることができないのだ。むろん、我が身にもいくつかおぼえがある。この「無関心」の問題と「心」の問題の両方からアプローチをかけていく必要を感じている。

 読んでくださり、ありがとうございます。「容疑者宅には漫画やゲームがあり……」という報道にも、似たようなことを思います。「容疑者は高血圧で……」とか「容疑者宅にはロックバンドのポスターがあり……」とは、いっさい言われないものですからね。なんにしても差別というのは、経済的に考えてもひじょうに不合理な(要するに社会全体が損をする)行為なのですけれども、これを話すとまた長いので、別の機会にでもー。

精神
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ヒプノシア

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