◆哲学をしてきたわたしが、なぜ福祉にすすんだのか

 よく、こういうことを質問される。哲学を学んできたひとがみんな哲学者になると思っているのだろうか。そんなの………………とってもすてきだ。

 哲学は生きることぜんたいとつながっている。そのときどきで迫ってきたことを顧みると、いつもそのそばには「考えること」があった。
 幼稚園のころは「集団から逸脱することのリスク」を肌で感じ、おそれていた。それでも、どうにかなったわけではなかった。そのあと、集団のなかでひとを排斥することの意味を考えていた、要するにいじめの場面があったのだ。思い出すのもこそばゆい中学生のころは、生きることの意味や、死後の世界のことを考えた。高校生になって、哲学という学問があることを知った。これだ、と思った。
 哲学科にすすんだあとも「誠実さとはなんだろう」と悩み、もうれつに病んだ。卒業後、精神疾患のことが頭をもたげた。どういうわけか、わたしはここまでの人生で精神疾患をもった人と出会う機会が非常におおかった。すっかり元気になったひともいれば、もういなくなってしまったひともいる。そのたびに、どうしてこうなってしまったのだろうと思って過ごしてきた。この世界を深く知り、よりよいものにしていけないだろうか?正直、当時感じていた福祉のイメージは「旧態依然」「保守的」「閉鎖的」と、あまりいいイメージがなかった。それに対して「改革」「オープンさ」といったものが、必要になる気がした。これでいこう。そういうわけで、わたしは福祉の道をえらんだのだった。

 先程もふれたが、スタートは「福祉ぜんたいの状況をよりよいものにしていけないだろうか?」だ。そこから、今の問題は何なのか、どうして問題なのか、今の状況で得をしている人たちはだれなのか、損をしている人たちはだれなのか、「よくする」の「よく」とはどういうことなのか、誰にとっての「よさ」なのか……というふうに考えていく。そのなかから、必要そうなことで「自分でもどうにかできそうだ」ということをやってみる。自分でどうにもならないことについては脇に置いておく。「完治させます」とか「制度を変えます!」とか言ったらおしまいだと思っている。前者はできたとしても医療の役割だろうし、後者は実績をつけて、政治家になろうと心を決めたときに考えることだ。
 古代ギリシアの哲学者エピクテトスは「自分でどうにもならないことについては考えない」と語った。彼は奴隷の身分にありながら思想をつづけたひとで、周りの奴隷からも一目おかれていたらしい。当時は、身分をひっくり返すことなどできない時代だ。2000年以上前のことばにすさまじく説得力がある。哲学の、もしかしたら文学の、といえるかもしれない……そういうところがすきだ。

 こう書いてみるとなんとなく哲学、ものの根っこを考えることがあらゆる事象と密接にかかわっている気がしてくる。福祉という、なんとなくふわっとした言葉。やさしいひとがいそうなイメージ。なんだかよくわからないひとびとのいる、得体のしれない世界。この得体のしれない世界の中に問題があり、答えがある。そんな気がしている。

 読んでくださり、ありがとうございます。ググればわかるのだけれど、福も祉も「しあわせ」という意味の漢字で、そもそも学問にたいしてこのふわふわ感というミスマッチな感じがどうにも好きになれませぬ。

精神
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ヒプノシア

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