◆手紙という芸術

きのう、友人から手紙が届いた。学生時代はもっぱら手紙を止めてしまう側の人間だったのだけれど、二十代も終盤にさしかかり、改めて手紙のよさを噛み締めている。なかでも、旅行先でふらっと買った葉書で書く手紙は最高である。日暮れの前におかみさんがひとりで切り盛りする小さな宿に入り、広い部屋の中にちょこんと置かれた、年季の入った机の上で手紙を書く。こういうのはふしぎと、必要最小限の空間で世界が完結しているホテルではやりたくならないものだ。といいつつ結局ホテルで手紙を書くときもあるのだけれど、前述の宿のような「よさみが深い(「いとをかし」に近いらしい)」といった情緒はわいてこない。
手紙のよさは、そのアナログ性に尽きる。どんな葉書や便箋を選ぶかで手紙の見え方が変わり、字体や文章の傾きからはその人らしさが浮き出てくる。誤字を直した跡や雨で滲んだ文字も、却って味がある。紙質によって手紙の訴える温度も変わる。そこへ手紙を書く時間、待つ時間、読む時間が重なっていく。手紙は書き始めたその瞬間から、時間的なふくらみを持った芸術作品といってもよかろう。文豪や芸術家の書簡をありがたがって展示するのは内容もさることながら、そういった側面もありそうだ。デジタルデバイスを手に持つことが増えたこのご時世、あえて紙を選択することは再評価されていい。いつでもどこでも繋がれる利便性の上に滑ることばや、コピー用紙の上に並ぶ整然としたフォントでは表現しえないものが、どうやらこの世の中にはありそうな感じがする。
そういうわけでよほど遠くの人でなければ用件以外のメールはしたくないし、ノイズの行き来しやすいLINEもやめた。同じような理由でTwitterも続けるか否か悩む時期があったが、不必要な情報を捨象することでうまくやっている……気がする。それに加え、わたしの人間関係はインターネットを主軸に広がっているので、つながりをいっぺんに断ち切るほど潔くもなれなかったし、そうする必要もなかった。
今日も読んでくださり、ありがとうございます。今日何も起こらなければ、手紙にまつわる話をもう少し続けたいと思います。

コメント

  1. […] きのうに引き続き、手紙の話。 彼女から届いた手紙には故郷のことが書かれていた。彼女は東京から遠く離れた故郷を愛すると同時に、土地の抱える現状を案じてもいた。わたしも旅行 […]

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