◆似合わない服の話◆

電車に乗っているとき、乗っているひとを見るのがすきなので「この人服が似合ってるな~」と思うことがある。言いづらいけどその逆もある。

服にちょっとでもこだわりがある人ならば、好きな服と似合う服が一致することはこの上ない幸せだろう。かくいうわたしもそうで、見合う努力はしたい。たとえば細いラインの服がすきなのでへんに太らないようにする、とかそういうことだ。

しかしどうあがいても似合わない服というのは、わたしのような不美人層には確実に存在する。魔法使いが大剣を振り回せないのと同じである。そういったとき、「好きだから着る」か「好きだけど着ない」かの選択を迫られる。わたしは圧倒的に後者である。それは「似合わないことで服の魅力もそぎ落としてしまう」と思っているからだ。

わたしは骨盤が張っている。よってタイトスカートはすきなのだが、骨盤の分だけ身体の線が目立つので、履くと太い下半身に細い上半身をくっつけたロボットみたいになってあんまり似合わない。着ることで理想の形とのずれが起こる。これが現実である。つらいことだが、現状タイトスカートのために骨盤を削るわけにはいかない(痛そうだし、高いから)。ここでタイトスカートに対するあきらめがつく。タイトスカートには適性がないのだと理解するのだ。

この適性のなさは、似合う人へのルサンチマンになりがちだ。タイトなファッションは今さほど流行っていないからか目にすることは少ないのだけど、そういった人を見かけるとやはり目を奪われてしまう。なることのできなかった理想の形がそこにあり、美しいと思う。しかしわたしにはそれがない。どうしたってないものはない。

放っておいてもルサンチマンは滞留してしまう。ないものねだりで手に入るものは「ない」という事実だけである。そのかわりに似合うものへのエネルギーに転換する、すなわち、適性のあるものに力を尽くすことでそのものと見つめ合う時間をとるのだ。そうすることで、よりそのものに似合う自己を創造する可能性を秘めているように思う。サガフロンティア2のギュスターヴ13世が、アニマを持たないことをきっかけに鉄の装備を極めたのと同じ構造をしている。適性の有無をしかと見極めた方が、自分にとっても服にとっても(ひょっとしたら周りにとっても)幸福な気がしている。

 

最後に、わたしはコテコテの後者支持者なので、前者の選択肢を採る人があれば、その根拠を知りたい。

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