◆進歩主義のほころびの話◆

タイトルっていつも付けるのに悩んで、いつも要旨を吸い取ったタイトルにするんだけど、今回タイトルどおりになったか自信がありません。難しい話はしてないと思います。

 

 だいぶ昔に見た質問なんですが、ヤフー知恵袋のこの質問に対するベストアンサーが結構すきです。

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これ、たぶん質問者さんがこの仕組みにおいてお金を媒介していなければ、さほど疑問に思わなかった発想だと感じるんです。お金に対するイメージがしっかりと映った質問でしょう。それに対して回答者の方が「経済感が未熟で」と感じているのでしょう。

まぁ、中にはずっこい人やものがありますので、ペイすれば必ずしも富の総和が増えるわけではないんですけど、健全に世の中が回っていればベストアンサーの通りになるんじゃないかなあとおもってます。

 

 

さて、わたしはその仕組みからこぼれ落ちがちな人のことがちょっと気になります。それは何かを生産したりできない状態にある人です。要するにハンディキャップを持っていることによって働けない人ね。働かない人じゃないわよ。働かない人はどんな社会でもいるけどね!働きアリのお話が有名よね。アタシも働かないで雨の日は読書、晴れの日はアリの巣ほじくっていたかったわ。

働けないのは社会の構造として撥ね付けられているパターンがほとんどだと思うんだけど、生産性の良し悪しを考えればどこだって「よいものをたくさん生み出せる人」がほしいわけです。それがいちばん低コストで高パフォーマンスなのです。MP消費1のアルテマがあればみんなそれを唱えたいわけです。

けれど、そうじゃない人も一定数いて、「生み出せない人は死ね」ではだめなようです。いちおう日本は福祉国家ということになっておりますので、「できなきゃ死ね」は掲げる国家の姿と矛盾します。また今働けている人も何かあって働けなくなったときに「じゃあ死んでいいよ」って社会ではこまります。スペランカーを笑えない世界になりますね。マンションの階段を降りたら死んでしまったりね。

さておき、一応セーフティネットはあるんですけど、それだけだとやはり生きていくにはちょっと足りないことが多いようです。

それを受けてか知りませんが、一定の規模の企業には障害者雇用が義務付けられております。それがいいことなのかどうかはちょっとなんとも言えません。雇用があるのはいいと思うんですけど、それって結局「よいものをたくさん生み出す」信条と一致するかっていうと微妙な気がしてます。で、その信条を大切にしているところであればあるほど、当人に圧力がかかっちゃうのかなーなんて想像をしてしまいます。当然圧力に弱い人は辞めたり、病んでしまったりします。それって意味があるのか?

以前、障害者雇用を斡旋する会社の人とお話したことがあるんですけど、そこの人は「障害者雇用って大変なんだよね、生産性とかの面でカバーできないでしょ。企業にお願いしに行くウェイトが高い感じになるからさ、ふつう(健常者)の転職コンサルみたいなノリじゃないんだよね」(要約、しかもうろ覚え)みたいなことを言ってた記憶があります。今のシステムを考えればまぁそうなるだろうと思います。

 

よいものをより多く生産するシステムが変わることはおそらくないし(地球上で行われているビジネス競争に負けるからです)、それ自体は間違っていない気がします。問題があるのはそれを叶えるための労働システムなのではないかなあ…。そんなことなので、なかなかうまく歩み寄れるものが考えつかなくて難しいなあ、という話でした。

ああでも、人間ってよくわからないものを遠ざけたがる傾向にあるので、知る勇気を持つことって結構大事なのかもしれません。転じてそれは想像力にもなるのでしょうか。たとえば「片耳聞こえるからいいでしょ」なんていうのは、片耳しか聞こえないひとの苦悩を全然わかってないなと思うんですよ。わたしとてそこまで片耳が聞こえない人と交流しているわけではないけれど(せいぜい2,3人です)、やっぱり両耳聞こえるのとは違うんだろうなと思うことがけっこう発生します。自分と異なる状況にある人、ものに対するアクションであるとか言葉の選び方っていうのは、知っておいた方が今後いいんじゃないかな~とぼんやり思います。今後はもっと色々な人が増えてくるから(その理由は労働人口が国内でまかないきれなくなってくることが大きいかなって考えています。外国人労働者とか?さきほど挙げた障害者雇用もそうなるのかな。)、今まで通りのコミュニケーションだけでまかり通る人は減っていくんじゃないかな…。身近な例だと外国語できないとしんどいシチュエーションは増えるんだろうな、みたいなね。異なる存在を理解するって結構無茶だなので、「世の中には甲を乙と考え、丙する」人がいるんだなあって認識でいいんだと思う。理解より承認というのでしょうか、とかく理解の領域までハードルを上げると、よっぽど寛大で賢くないと全てを対処できないんじゃないかなあ。友人のことですら「は?意味わかんない」ってことありませんか。ですがそれが関係の消滅に至らないのは、そんな「意味わかんない」部分を持ち合わせつつも、「わかる部分」や「わからなさ」を受け入れる姿勢がこちら側にあるからだと思うのですよ。相手にとっても同じです。

 

ちなみに、ベーシックインカムは結構建設的なんじゃないかなあと思いますけど、どうなんでしょうね。実現が遠すぎますか、そうですか。よく「そんなのやったら働かなくなる」って言うけど、全員が仕事をやめはしないと思うんですよね。自分がしたことで感謝と対価をもらえて悪い気分になる人ってそうそう多くないと思うのですよ。それで(人それぞれ基準は異なれど)豊かな暮らしができるとするなら、+αを求めて働く人はけっこうたくさんいる気がしました。それにみんなと同じじゃ嫌って人いるでしょ、そういう人こそバリバリ働いて何もしない人との差別化を図ると思うし、進んで働く人が多くなるならやりたいことを究められてなんだかすごい発明が出てきちゃったりもするのかなーなんて思います。

人は関心のあることを突き詰めている姿がいちばん美しいと思っていて、そんな風になったらなんか素敵かもしれません。そこには知への渇望と深い愛情が備わっている気がします。もちろんそこに法を侵すようなことを研究する人もいるだろうけど、それはどんな世界でもいっしょだと思っています。結局こぼれるものは出てくるんですよ。確実にそういったものを抑止できるシステムを生み出すのは到底無理なんじゃないかな。

と言うと、こぼれるものが出てくるなら今の仕組みとさほど変わらないのでは?とか思われるのだけど、そういうときってどうしたらいいんでしょうね。そういうのは出てきてからまた考えればいいんですかね。歴史を見てると問題が出てきてから考えてると思うんですけど。先に心配してたら永遠に成長しなさそうですね。そんな感じです。

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