■超越せしもの

信仰、志、といったことを、春に『三国志』を読み始めてからずっと考えている。くだけた言い方をすれば「めちゃくちゃかっこいい」のだ。そこにはなんだか、理屈では説明しきれないものに自分の心身を委ねるという姿勢がみられる。それは漢という国に対する忠誠であったり、将軍への尊宗であったり、様々であったが、数々のドラマが巻き起こるのには、この心があってこそだと、関羽を筆頭にそう思わされた。

別のことでいくと、体験を通して超越した世界とふれあうこと、これが、映画『シラート』の終盤におこったことなんじゃないかとも思った。見ているときはそこまで考えていなかったのだが、どういうことだろうと、他の人のレビューや解説をみて納得にいたった。当初持っていたものを全て失い、これ以上何を失うのか?といった状況下で、恐怖や躊躇といったものが既存の世界から抜け出ていく、そして……。たしかに、まさにそういうシーンだった。ひらたいことばではあるが、「最強になった」というのはこういうことなのかなと思った。その後の展開も目を見張るものがあるのだが、ひとまず信仰や自己を捨て去るといった極限の行為にかんしては、ここがピークだ。

そこで、はたと思う。一体、信仰というものはなんなんだろう。現代日本に生まれ、周りにも宗教的な風土がないままきているので、これが欠けている自覚はある。数々の作品との出会いを通して、最近はこれをわかりたい気持ちがつよい。なにかこう、欠けた者ではとうていおっつけないような感覚もあり、漠然としたあこがれもあるのかもしれない。

読んでくださり、ありがとうございます。大義なくても強く生きたいですが、やっぱり世俗化したにんげんには越えられないなにかがそこにはあるように思ってしまうのですよね。

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