◆こころの故郷

 今回のコロナを受け、アトリエも5月の半ばまで休止となった。それ以降のことは、社会情勢を見ながら決めていくのだろう。しかたないとは思いつつも、休止になることが決まった1ヶ月前、多くのメンバーが集まった。50年間アトリエを主宰する先生も「これまでの造形教室の中、こういったことは初めて」とのんびり話していた。「また元気で会いましょう」と別れた。やっとのことでアトリエに通っていた人たちは行き場を失ってしまう。しかも、いつまで続くかわからない。自粛中の作風が変わるんじゃないかと言っているひともいた。それを楽しみにしているひともいた。すべては自然のなりゆきであって、受け入れていかなければいけないことだけれど、心配だった。

 わたしも職場にという行き場がありながら、言いようのない不安がよぎった。とうぜん職場とアトリエは違う。なにをかくそう、これまではアトリエに通いたくてフルタイムで働くことを拒否していたのだ。今は職場の休日と、アトリエの開いている日が合っているのでフルタイムで働いているが、そうでなければ転職もしなかったろうし、今後休みの変わることがあれば今の職場もわからない。

 ところで、わたしは学生のころからことばが胸にひっかかり、詰まっている感覚があった。誰しも一定のキャラクターを演じながら日々を過ごしているものだと思うが、そのせいで本音がどんどん押し込まれてしまい、自分が失われていく感覚があった。休み時間も息苦しく、この詰まり感からわたしを解放してくれたのが中学の頃に出会ったゲームセンターや大卒後に誘ってもらった文芸サークルの仲間たち、そしてこのアトリエだった。
 もちろんアトリエは作品制作が主たる活動だが、アニメなどの他愛ない話から、ときに政治や国際関係の話に切り込むときもある。そんなとき、なぜかアトリエではことばが胸につかえることなく出ていってくれる。その感覚が心地よく、相手も真摯に受け答えをしてくれるので、安心して過ごすことができる。昔から冗談や皮肉がわからず、何と返せばいいのかわからずに微妙な空気になってしまうことがよくあった。いっぽうで、アトリエにはそういったことがほぼないというか、気にせずに接してくれるひとが多い。困惑することのおおい日々のなかで、ここでは何も飾らないでも、ひとと話ができる。

 ここ半年、わたしはこれを「正しい呼吸のできる場所」と呼んでいる。表面を覆うキャラクターからの解放感と、深くあたたかな安心感……いうなれば「こころの故郷」だろうか。もし職場しかなければ、とうに窒息していることだろう。もともと、このエッセイを書いたのは1月頃なのだが(公開し忘れていたのだ)、今まさにアトリエがなくなってちょっと窒息しかけている。転職し、決して居心地の悪くないはずの(むしろ、これまでの中は一番すきになっている)場所でこうなっている。

 また集まれた日には呼吸の仕方を思い出して、感極まってしまうかもしれない。いつか来るその日のために、絵を描こう。みな、元気に過ごしていてほしい。

 読んでくださり、ありがとうございます。ところで、先日文芸サークルの友人やゲームセンターの友人と電話をしてだいぶほっとしました。安心できるつながりについて考えるよいきっかけです。コロナの拡大は決して喜ばしいことではないですが、これまでのあたりまえを根底から揺すぶられることで、見えてくるものは多いなとも感じています。
 アイキャッチはアトリエに置いてきた絵です。もってかえればよかった。

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