◆『九条の大罪』第23審「自殺の心境❶」

しばらく書かないあいだにもう第23審、早いものである。あまりに忙しく、書く暇がなかった、というのは外部的な要因で、そんな中でも書けなかった自分の方にほんらいの要因がある。ほんとうは感想を書きながら連載を追いたかったわけで、そういうことなのであいた時間のなかからこれに充てる時間を積極的につくっていくつもりだ。
さてさて、現実とリンクするかのごとく、今回は自殺がテーマである。

今回のお話

人気のない戸建ての窓が割られている。家の中はすっかり荒れ果て、必要なものもごみも季節の家電もそのまま積み重なっている。文字通り「足の踏み場もない」状態だ。リビングとおぼしき空間に、前頭部の禿げ上がった中年男性が座し、「あーーしんど。」とこぼしている。部屋には彼の他に、誰もいないようである。着ているシャツも汚れがそこかしこにあり、顔にも傷やシミ、少ない髪もセットされておらず、不衛生な容姿である。IHコンロでつくったなんらかを食べたあとが見えるが、何かは判別できない。わかるのは、彼が左利きということだけである。ため息をつき、家族の写真をみている。光の関係で顔の細部まではみえないが、長女の七五三のときのものだろうか。そして、ふたたびため息。

その後、男性は服だらけの部屋に移り、犬の散歩などに使うリードの首輪部分を、自身の首にセットしする。そこにはやや迷いもみえるようすだが、次のシーンでは心を決めたようだ。

さて、場面は変わって壬生と烏丸が、一軒家の前で話をしている。場所について尋ねた烏丸に壬生は、家の中に彼女にもらった指輪をなくしてしまったという。めちゃくちゃ怒られる、とも。烏丸は、なぜ自分が壬生の探し物に同行する必要があるのかと、しごく当然の質問を投げかける。それにしても壬生と烏丸は、頭ひとつ壬生の方が大きく、肩幅も2倍くらいある。両腕には刺青もガッツリ入っている。ふつうに考えて、いっしょに並び立つふたりにはみえない。
壬生は、話のできないポン中(薬物中毒者)と心霊が最上級に苦手で、烏丸が霊などを信じなさそうだから、と言う。心霊を聞き、けげんな顔を見せる烏丸だが、「後で最強のパフェご馳走しますんで。」という壬生のことばに釣られている。壬生がいうには、5000円のロイヤルストロベリーパフェだと。その値段をきき、再び烏丸は驚いているようだ。

呑気な会話をしているうちに、九条が家の鍵を持ってやってくる。壬生が自分の部下に取りに行かせたというのに、九条に持ってきてもらったことを詫びる。近くにいたのでよいと九条はあっさりとしている。烏丸は九条に、この家の事情を尋ねる。九条は鍵を開け、元・住人の植田篤彦が首吊り自殺をしたのだと言う。二階の手すりにリードの手持ち部分を引っ掛け、階段から首を吊ったようだ。足元には、尿とおぼしき体液もこぼれおちている。序盤の決心の表情のあとが、このシーンにつながるのだろう。

場面は壬生・九条・烏丸の時間に戻り、壬生が植田の説明をはじめる。どうやら植田は、金融屋に借金をして自宅に抵当権をつけられ、返済できない状態になった。そこで壬生が自宅を買い取り、抵当権を外した上で植田に賃貸したのだが、半年ほど家賃を滞納したので九条に依頼して立ち退かせたという。九条はそれを受けて建物明渡請求裁判を起こしたが、植田は欠席し勝訴となる。その後も植田は姿を見せず、裁判所も九条も福祉につなごうとしたが音信不通となり、明け渡しの強制執行を行ったという。

烏丸は荒れ果てた家の様子をみて、見えたものひとつひとつに感想をこぼしつつ、本人像を類推している。そして、自殺の理由を考える。烏丸いわく、無宗教の国は自殺率が高いという。それに対して九条は、わざわざ不法侵入をして、復讐のつもりで自殺した線をひとつの可能性として見出す。壬生は自らの買い取った物件が事故物件にされて価値が大幅に下がったこともあり、納得いっていないようだ。そんな中でも壬生は指輪を見つける。一つ目の髑髏の目の部分に宝石が入った、ごつい指輪である。「ま、死人に口なし。生きてなんぼってことですわ。」と言うのであった。

感想

これまでの流れからして、エピソードの1回目は導入の部分になるので、気になるポイントをいくつか提示しておわるかたちになっている。

烏丸は、優秀な弁護士だが型を破った考え方には乏しい。以前わたしは、『弱者の一分』の最終回で九条が烏丸にネクタイを貸すシーンを「九条のもつエッセンス(思想・信条)を分け合うことのメタファ」として読み取った。今回もそれが、烏丸の語る部屋の分析にあらわれている。表層にある情報を拾って判断するのは、いわば読者と同じ立ち位置である。見えるものから自殺の原因を考える烏丸に対し、九条は復讐の線をかんがえる。なるほどな、とほとんどの読者は思う(だろう)。相手への復讐で自殺するのは、一般的な動機とはいいがたい。もしそうであれば、相当やけっぱちである。じっさい、そのときの壬生とのやりとりを、烏丸はじっと聞いているにとどまっている。

ちなみにここで九条は、一見しただけでは捉えづらいところのもの(復讐)を拾っている。仮に復讐だった場合、誰・何に対する復讐であるのかまでを考える必要がでてくると思うが、ここでは置いておこう。さて、わたしはこのシーンをみたとき、父の墓前で兄・蔵人と対峙した際、「あなたには見えないものが見えている」と言い放ったシーンを思い出した。これは前回の家守に対する「あなたはがんばりました」という労いにも表れているような気がするが、長くなってしまうのでこのあたりで、今回の話をしよう。『九条の大罪』は『闇金ウシジマくん』にくらべて人物の描写が本編のなかで描かれることが多く、登場人物への感情移入をしやすい気がする。一方ウシジマくんは、エピソード前後の部分や、カウカウ社員のみの内輪のやりとりのなかでキャラクターの一面が描かれることが多かった。

  1. 植田篤彦について:いちおう植田も京都の地名のようだが、京都市からはるか南、ほぼ奈良県である。しかもきわめて小さく、特筆するところもない。なんらかの理由で借金をしていたようだが、今回は烏丸の競輪説しか挙がっておらず、なんともいえない。家族もいたようだが、妻が亡くなっていること以外は現状確認がむずかしい状態である。今回の物語はここがテーマなので、少しずつ解明されていくのを待とう。
  2. 壬生について:引き続き、謎が多い。「金融屋で金を借りて首が回らないのを助けようと物件を買い取った」といあるが、金融屋とグルである可能性もいなめない。指輪がなぜこの家の中にあるのかといえば、一度壬生がここにきていることの証左に他ならない。なんの用事だったのかをシンプルに考えれば、貸主として明け渡しの立ち合いのときとなる。しかし、それ以外の何かで足を運んでいる可能性はじゅうぶんにある。もしかすると、自殺の理由を知っている、というオチも考えたが、九条との関係をみるに相当な信頼を置いていそうなので、薄いかな。
  3. 自殺について:烏丸は自殺の理由に孤独感、絶望感を挙げたあと、一般論として無宗教の国の自殺率の高さをかたる。自殺を罪とする宗教の信仰を持つものは、自殺を思いとどまるという。実際これはWHOが興味深い論文(気になる方は”A global perspective in the epidemiology of suicide”を)をあげており、無宗教の自殺率は自殺を禁じている宗教圏のひとびとの倍以上という研究結果がでている。
    わたしは無宗教者だが、宗教を持っている人とのやりとりや、本を読んでいて思うのは、宗教のあり方のひとつは「生き方の指針」であり、いわば心(魂という方もおられるかもしれない)の寄る辺ではないか、ということだ。連続殺人を犯したシリアルキラーの資料をみていても、極刑の前に自身の帰依する宗教の教えを語る人がいて驚いたものだ。それくらい、世界規模でみれば宗教の存在は一般的なのだ。そう考えると、宗教をもたないということは生き方の指針、心の寄る辺を他のものに委ねないこと、すなわち自身にすべてが委ねられた状態で生きていくことになる。それが必ずしも宗教でなくともよいと思うが、教義の揺るがなさで右に出るものはなかろう。そういった絶対性というものを、自身の近くで見出すことは非常にむずかしい。だからこそ現代においても世界的に宗教が存続し、大切にされているのだと思う。
    さて、日本では自殺した人にたいして「かわいそうだけど、自分で決めたことだから仕方がない」と考える傾向があるという。これは体感でも「たしかにそうだな」と思うぶぶんがある。しかしながらそう考える根拠は、生き方の指針をそれぞれで考えなければならない状況にあること、それぞれで考える=自己決定権があることにより自己責任論が生じやすいということ、そうでありつつもぜんたいの平等性に言及されやすい(たとえば、みんながんばっているのだから病気だからといってお前だけさぼるな、といったようなことだ)ことなどなど、他にもさまざまな要因が絡み合っているようにみえる。
    話をもどそう。わたしがここで言いたいのは、植田篤彦という人間が自身の体を休めるよりどころとしての家も、心のよりどころとしての宗教(や家族、仕事はどうだろう?)も持たない状態で亡くなっているであろう、ということである。家については、買い上げられ、明け渡され……で自分のものではなくなっている。心については烏丸のせりふである「孤独感」「絶望感」のふたつが、よりどころのない人間の心理を端的にあらわすことばのように思う。
    そのあと、壬生は自殺されたことについてあれこれ言うものの「生きてなんぼってことですわ。」と締めており、ミクロな視点でみればこの話の文脈の中のセリフにすぎない。しかし、視点を広げ、人間が生きること全体まで俯瞰してみると、まさに「生きてなんぼ」は自殺の対極である。今回のテーマにそういったエッセンスが含まれているのだとすれば、単なる法律系オムニバス作品ではなく、人間が生きることそのものをテーマとした物語として読み進めていくことができ、より深く本作を楽しむことができるだろう。

読んでくださり、ありがとうございます。実際にそういったでかいテーマをもって描いているのかは知る由もありませんが、いろいろな読み方があっての感想だと思うので、今後も楽しみにしとります。

コメント

  1. […] 、今後も出てくるのだろうか。あまりに仰々しい名前なので、気になってしまった。さて、前回わたしは植田の自殺について「孤独感」「絶望感」が心のよりどころのなさを描いている […]

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