◆『九条の大罪』第35審「消費の産物」❽

今回のお話

しずくの母の恋人である外畠は、亀岡との面接に、しずくの母も呼び出したようだ。障害者手帳をもった内縁の妻の娘を騙してAV女優として活動させた、というていで裁判を起こすつもりらしい。心にもない、亀岡のネット記事やyoutubeを見て感銘を受けたという話を、目線も合わせずに行う外畠と、ふだんの服装で不服そうに足を組むしずくの母の姿は、案件を頼む人間の態度としてはきわめて不適当である。真面目に聞く亀岡だが、どこか訝しんだようすで話を聞いている。話を聞き終えた亀岡は、母親の衣子に、未成年のAV出演の契約書にサインを書いていることを追及する。衣子は自身が攻められるゆえんがわからず、亀岡に「それがなによ?」と返す。亀岡はしずくが未成年であるため、母親が法定代理人となることを伝え、しずくが障害者であったとしても、親権者がサインをしていることは、AVメーカー側の落ち度にはならないため、不利になるという。すると、とたんに外畠が本性を表して衣子を攻め、亀岡に「金ふんだくってくれよな!?」と言う。衣子も、自分たちは被害者であると申し添えているが、誠意はまったく感じられない。亀岡は裁判の論点として、メーカーがしずくを障害者だと気づかなかったかどうかを追求するつもりだという。
外畠はその次に、笑顔をみせながら慰謝料がいくらくらいかを尋ねる。いくらくらいか尋ねられた外畠は3000万というが、亀岡がよくて500万といったとたんに取り分を計算し、期待はずれといった態度をみせつつも了承する。しかし、衣子はその金額で納得がいかないとごねる始末である。裁判に向かう亀岡だが、外畠と衣子のテンポはすっかり合わない。しかも、既に外畠は亀岡を性の対象としてみている。本能がそのまま人の形になったような人物である。

そして、電話越しのやりとりだった九条、亀岡の2人が顔を合わせる。彼女は、九条がすっかり大人っぽい、むしろ険しい顔立ちになったという。九条は「面倒な案件ばかりなのでね。」と答え、なぜ彼女が性産業を目の敵にするのか、そこでしか生きられない人間を理解しているのかと問う。彼女は「弱い女は売春しろって話?」と質問を返し、弱者を商品化して消費する悪は許さないという。さらに、今回には障害者を騙しており、社会問題になることは避けられない。「絶対に許さない」と、議論は平行線だ。そこに、しずくがコインランドリーで洗濯をしている描写が入る。彼女はすっかり解き放たれたような表情で、幸せだとつぶやく。九条は、しずくはAVを続けたがっており、障害者であろうと人生の選択があることを話す。たとえ間違った人生を選んでいても、それを間違いと決めるのは亀岡のような外野ではないと。しかし、亀岡は屈せず「弱者が騙されて利用されるのを見て見ぬふりをしろってことね。」と一般論で片付け、犯罪を助長する弁護士との話し合いは時間の無駄だと切り上げてしまう。

そこに、修斗からしずくに連絡が入る。しずくの出演作が差し止めになった話を、粟生から聞いたのである。しずくは、勝手に母たちが訴え、名前を変えて出たいと頼んだが取り合ってもらえなかったと話す。障害者を強制出演させた記事が炎上して会社が叩かれてしまい、それどころではないと。しずくは、自分のことを汚れた汚い生き物だと思って生きてきたことを話す。泣きながら、AV業界に入って初めて、生きていてよかったと思うことができたという。きれいにメイクをしてもらい、自分の力で稼いだお金で生活ができることがうれしいと話す。しかし、それももうなくなってしまう。助けを乞うしずくに、修斗は、AVに出演したのでいい条件で風俗嬢になれると、更なる深淵へとしずくを誘うのであった……。

感想

この展開とテンポのよさは、ウシジマくんではみられなかったものだ。音楽がサブスクリプションになったことで、前奏の短い曲が好まれるようになったというのはよく聞かれるが、まんがでもそういった向きはあるのだろうか。ただ、本作においては裁判の結果ありきで物語が進んでいくものであり、かつ、今回は結末からスタートしているため、それまでの経緯を語るのに必要な部分は相当限定されることがうかがえる。

最初の外畠と衣子の依頼のシーンは、なかなかきついものがある。親の立場である衣子からも、しずくは金ヅルとしての扱いを受けているのである。ここでも「商品」という言葉が頭をもたげる。また、金のためなら内縁の妻の娘とうそぶくことも厭わない外畠の行動にも、同様のことがいえる。しかし、外畠はしずくがAVに出演しているのを見て、しずく本人を脅して犯すのではなく、裁判に持ち込んで慰謝料をふんだくろうという発想に至るあたり、案外頭を使える部分が残っているんだなと感じる。衣子は自分が攻められている理由がわからないというので、AVに出演していることについてもさして書類を読まずにサインしたか、もしくは別の者によって代筆されている可能性がある。


岡と九条のやりとりは平行線のままだ。九条が、障害があろうとなかろうと、自由意志を持った個人たる人間としての、しずくの選択という、しごく個別的なことについて語るのに対し、亀岡は弱者が利用されて消費されている、それを助長することは許されないという、不平等な社会における一般論で対抗する。ひじょうに倫理的な問題を含んだ今回のエピソードであるが、裁判の上で重視されることはどちらかというと、亀岡のいうように、メーカーがしずくを障害者だと認知していたのかどうかという、意図的かどうかといったぶぶんである。九条の語る、しずくがそこでしか生きていけない人であるとか、そういったことはあまり大切にされないようである。ただ、白石桃香のような例を見るに、振り返って最適な選択肢ではなかったとしても、そのときにおける最適な選択肢というもの性産業であった、ということはままあるように思える。
九条に対する反論として亀岡はわりとかんたんに生活保護を挙げるが、現在のしずくの立場では、劣悪ながらも養育者がおり、なんとか生活をしている世帯のなかに置かれている。しずくも一応はアルバイト的なものに就いてはおり、叱られることは多いもののくびにはなっておらず(時間の問題かもしれないが)、全く労働能力がないわけではなさそうである。そこで保護申請に踏み切ろうとしたとき、しずくには労働の能力の有無を判断されて門前払いだろうし、生活保護以前に利用できるサービスがありますと言われるだろう。仮に、保護がおりる程度の能力だったとしても、そこから母親との世帯分離や、それに伴う行政手続きが降りかかってくる。基本的に、我が国の福祉サービスは申請主義をとっており、申請にあたっては制度について知っていることや、制度にくわしい支援者とコンタクトを取れる状態であることが前提になってくる。そういった情報へのアクセスは、全く福祉とのつながりがない状態からは縁遠く、今のしずくもそのような状態だろう。そのため、たんじゅんに弱者には福祉があるといった言い方も、パッと聞くと納得させられてしまう気がするが、よくよく考えるとそこまで単純ではないように思える。
一方の九条はしずく自身の意向を汲み、間違った選択でもそれを選ぶ権利があるといった個人の選択権について言及する。実際、じぶんに対して選択肢が同時にいくつも提示され、かつ十分な判断能力や、判断を助けるような存在があれば、そのときの自分にとって最も適切なものを選び取るのはたやすい。しかし、現実問題そういった状況におかれることは人生の中で少なく、とくに1日1日を必死で生き延びているような状況下にあるとき、フと垂れてきた一本の糸にすがるか、そうでないか、といったような選択を迫られることはたびたび起きてしまう。今回のしずくについても、極めて偏ったコミュニティにおける同級生やムーちゃんとの不健全な関係性から、修斗という蜘蛛の糸が降りてきて掴んだにすぎない。しずくに対してそれ以外の選択肢を与えることが、果たして誰にできただろうか?あのとき、修斗という蜘蛛の糸を掴まなかったとすれば、しずくの毎日は「汚れた汚い存在」としての自分が蹂躙されるという、鬱屈とした日々の反復であろう。九条が言いたいのはそのあたりのバックグラウンドを込めた「選択」であり、亀岡のいう「弱者には生活保護がある」といった、文脈を捨象した言説ではないのである。両者の差異はまさにこのバックグラウンド、文脈の有無にあって、以前、師である流木が亀岡に九条をおすすめしたのも、こういったところに由来しているのではないかと思う。
これからの裁判において、有利にはたらくのは亀岡のほうだろう。マスコミも味方につけ、世論もおそらく彼女を支持するだろう。いっぽうの九条がどのように応戦するのかは、気になるところだ。だが最終的に、しずくは修斗を殺害して被告人となる。それは亀岡の望む弱者の救済だったのだろうか?結末から考えてみると、単に目の前の悪を斬っていくことが必ずしも正義の証明にはならないのではないか、というのがわたしのもつ印象である。

さて、風俗への移行が予想されるしずくだが、おそらくAVほどキラキラした世界ではないことが予測される。ムーちゃんと同じ刺青を入れる経緯も気になるところであるし、相当ハードなところに向かっていくのではないか、と思う。

読んでくださり、ありがとうございます。亀岡にはじまる「文脈の捨象」はけっこうな危うさを伴っていて、九条のまえ言った「思想家や活動家はいい弁護士じゃない」というのも、大義を掲げるにあたって個々の文脈を丁寧に見ていけないことがあるのかな〜などと。

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