いささか事情があって、池袋西部の成り立ちを調べている。じつは土地の成り立ちや歴史をみるのがすきで、どこかふらりと出かけたときには「この土地のあらまし」のような看板を読むのをたのしみにしている。土地の歴史はひとの歴史であり、住民の声による運動などが資料の中にはしばしば出てくると、同じ場所で異なる人々のぶつかりあっているのは、今とさほど変わらなくておもしろいなぁと思う。

学生のころは世界史と地理がすきで、べつの授業でたいくつしたら地図帳や資料集をみているような子であった。そのくせ今は全然記憶に残っていないところが、さすがわすれんぼうといったところである。このふたつの教科には共通するところがあって、地球という大きな世界を舞台にさまざまな人の思惑や、思いがけない自然の脅威によって歴史が刻まれていくのが魅力であった。因果があってわかりやすく、理屈人間にはもってこいの分野なのだ。それでいて、すべてが判明しているのではなくて、ちょっと謎の残っているのがさらなる好奇心をそそる。

今回の池袋調査も、スケールは小さいがしくみはおんなじである。どういった経緯で池袋という場所が栄え、今のような繁華街になったのか。そうなる前はどういうところで、どういう人々が住んでいたのか……。

本をめくる手が止まらぬまま、図書館の閉館時間がきてしまった。500ページをこえる本を借り、寒空の下に立つ。冬の空気はどうしてこんなに澄んでいるのだろう。湿気かなとぼんやりわかっていても、じょうずな説明はできない。「帰ったらしらべてみよう……」と思い立ったとき、いつでもどこでも勉強の呼び声がしているのだと気づく。肝心なのはその声を聞き取る側のちからなのだ。

生活の多くを占めていたゲームがいささか縁遠くなった今、勉強に時間を割ける好機なのでは。探究心がそう叫んだ。そうかもしれない。今このエッセイを書き終えてふつふつと「地理や世界史をじっくりめぐり直したいな」と思っている自分がいる。

今日も読んでくださり、ありがとうございます。叶うならば大学でずうっと研究を続けたいなぁと思っていたのは、おそらくこの探究心ちゃんのせいです。今では、きっと大学にいる必要は必ずしもなくて、学びの声を聞き取って手を取ればいつでも、どこでもいい気がしています。