時間がほしい。もっとゲームしたいし本を読みたいしきちんと書きたい。ということを、このブログの中では「もういいよ」というほど書いてきた。実際今のしごとの内容への不満はおそらく人生史上いちばん少なく、ただ、忙しいだけなのだが、この「ただ、忙しい」はしごと以外の時間を侵食してしまう。
では、どれくらいの時間があれば適切なのだろう?ということを、ちゃんと考えてみようと思うに至った。ちゃんと考えないと、いつまでもばくぜんとした「時間がない」という不全感が消えないからだ。
しごとは自由時間の侵食のさいたるものだが、一方で、しごとによって生まれる対価は生活に必要な資本を生む。これをなげうってまで自由になりにいくのは、臆病者の自分にはまだできそうにない。生計をたてるもう一本の柱の芯材がみえてこないと、行動に移るには尚早と考えている。それは副業でも投資でもいいのだが、今は副業とちょびっと投資という形でしごとの時間を最終的にもう少し削っていきたいと考えている。
どれくらい時間がほしいかといえば、今のしごとの中でも社会の縮図のようなものは見られ、人の深淵に関わることでだいぶ深いところの物語を読ませてもらっている部分はあるので、ゼロにする必要はないのかな、と思っている。ただ、長らく続けてきた趣味である音楽ゲームや、しごとの関係からは得られない世界や知識をえるための読書、そして、それらを咀嚼したうえでなにがしかの文章にしていく時間も同じくらい大事だ。具体的にあとどれくらい、といわれると難しいが、今の生活の基本は崩さず、それらの時間をとれる余地のある時間帯を探していくことからはじまる。
そこでまず言及できるのが退勤後の時間で、なかなか頭が切り替わらずだらだらしごとをしてしまう日が多い。ここをどうにかしていけるかやってみて、その結果に応じて次を考えていけるとよいのかなと思っている。
今回のように理想や自由について考えるとき、同時にどこからが「欲」なのか、ということにも思いが及んだ。原則として、社会生活や日常生活が破綻しないラインが無難と考えられるが、となると極端な話、生活のコストを極限まで下げれば、今の時点でも求める時間は満たせるのでは……(コストを極限状態にすることを望むか望まないかは一旦据え置く)ということも思ってしまった。とはいえ、コストが下がれば必要な資本の量も減るので、「しごとの時間を減らす」という策にも出られるのは大きく、今の生活はだいぶ無駄が多いというか、お金について全く考えず過ごしているので、つきつめれば、実はだいぶ現実的な線かもしれない。ただ、これも今の状態で節制できるところをしてみてから行動に出た方がよく、6月の暮らしの段でお金のことを書いたのは少しこのことが由来している。
読んでくださり、ありがとうございます。同じようなこと毎回書いている気もしますが自分の中ではちょっとずつ掘り下がって現実に影響を及ぼしていけている(気がする)のでよいのです。
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