おとといの続きになるのかな。じぶんの容量がすくないので、やりたいことを十全に行うのはむずかしい。やることを配分をする、疲れを残さない。この結論は自らの無力さを思い知らされたようで、やるせなかった。

きのうゲームをしに行った帰りに、もうひとつの事実に気づいた。ゲームをしているとき、わたしは今のような、文章を書いているわたしではなくなっている。まるで戦隊モノの主人公らが、悪役を見つけて変身するときのように、ひとたびゲームにクレジットを入れると「ゲーマーのIGYO10さん(ゲームで使うなまえ)」に切り替わって、疲れるまで遊び続けてしまう。そのとき頭にあるのはゲームのことだけで、自炊のルーチン化だとか読書だとか小説の原稿だとか、すべてを捨てるような態度をとる。「え?帰ってからごはんつくるの?やだよゲームしたいし。本?なんで読むの?原稿?わたしのじゃないし。てか、今日は調子いいし、やるでしょ。中途半端に遊んで何が楽しいの?」と。いつもこのエッセイを読んでくださっている方は信じられないかもしれないが、たしかにこういうときがあるのだ。このエッセイを書いているとき、たいがいIGYO10さんはねむっているので、文面にはでてこない。

円滑な生活のしかたを考えたとき、いつもゲームの扱いに困る。これを考えているとき、わたしは「ゲーマーのIGYO10さん」から「生活者の御影」に戻っている。変身が解けるのだ。勝手に。ここで「IGYO10さん」のことを忘れて組み立ててしまうから、これまで「なんだか」うまくいかずに疲れたり、予定どおりできなかったりしていたのだ。その結果、ゲームが邪険にされていたのかもしれない。しかしゲームに罪はない。まったくもって……。わたしが「ゲーマーの自分」を忘れたことによる単純なミスだ。

うまく日々をやりくりするには、これまで忘れられていた「IGYO10さん」の声を聞く必要がある。彼女(彼?どっちだろう)はひとたびゲームを始めると目を覚まし、キリがいいか疲れるまで遊ぶバーサーカーなので、合間で声を聞くのはむずかしいかもしれない。しかし「生活者」のわたしとはまったく利害が異なるので、ひかくてき理性的な「生活者」が寄せていかないとこの問題は解決しない。また、宿題がふえてしまった。

じぶんでありながらじぶんじゃない。ふたりの人がいる感覚。わたしからみると「IGYO10さん」は欲求に忠実で自分勝手なので、ほとほとこまっている。「生活者」に戻ったあとはほとんど、彼(彼女?)を叱っている。

「ちゃんと一時間で帰るって約束したじゃない……。」と、三時間後に。

今日も読んでくださり、ありがとうございます。家にゲームを置かない決断も「わたしが無限にやってしまうから」というより「いぎょちゃん(他人なので、そういう呼び方をするときがある)がわたしのからだを奪ってしまい、『生活者』のやりたいこと(しごと・ものづくり・家事)が立ち行かなくなるから」だと考えると、利害の不一致があるのですとんと落ちます。じっさいゲームがなくても『生活者』のわたしはなんにも、困っていないのですから。