◆つくる生活へのあこがれ

アトリエに、いろいろなものをつくる夫婦がいる。作品にかぎらず、料理や雑貨といった、生活のものだ。なかなかお年を召した方なのだが、木だってじぶんで切って作品の材料にしてしまうという。

思えばアトリエを担当している職員のひとも「つくる」ひとだ。アトリエの机や階段の手すり、そして作品を展示する額と、つくるもののスケールがとにかく大きい。それに加えて自宅に畑をもっており、自給自足に近い生活をもいとなんでいる。

話を聞いたり、実物を見せてもらったりすると、心の底でほのかにあこがれが生まれる。実際に自宅の机や服や雑貨をつくるビジョンは到底思い浮かばないのだけれど、それにしたってもう少し「つくる」ことを取り入れてもよいのではないかと思ってしまうのだ。いまのわたしはつくらなさすぎである。作品もそうだ。心のなかでくすぶっているものが多い。「表現したい」という気持ちばかりが先走り、結果、文章も絵も、なにも生まれない。生活にしてみても、版で押したような既成品ばかりが転がっている。ささやかに抵抗するように作り置きが冷蔵庫に詰まっていたり、寝室に作品が置いてあったりするけれど、ほんとうにそれだけだ。

しかし、言い訳がましくこうも思う。あこがれだけがあふれて何もしていない今は「そのとき」ではないのではないか、と。アトリエに通うことにせよこのブログにせよ、好機がきたらああだこうだと考える前にはじめているものである。

「そのとき」が来るまで、みなさんの「つくる」を見たり聞いたりしながら、同じ時間をのんびりと過ごしていこうとおもう。寿命がきてしまったらそれまでだが、それはそれでしかたがない。もしかすると死んだあとで「そのとき」がくることもあるかもしれない。死後の世界に思いを寄せてみる。死んだあとの世界では、なにをつくるのだろう……そもそも「死」んでいるのに「生」活だなんて、おかしな話だ。わたしのあたまなんて、いつもまぁ、まぁ、こんなものだ。

今日も読んでくださり、ありがとうございます。年賀状とか毎年描いている人もとても尊敬します。おなじ版でもなんだかできません。

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