公衆電話がすきだ。現代を代表する美徳「小さく軽く」に反した「大きく重くやぼったい」図体は、わたしの幼い頃からぜんぜん変わっていない。その図太さすら、小心者のわたしには輝いてみえる。

中でもすきなのはボックスに入ったそれである。あの個室に入ると外界から切り取られ、むんとした独特の閉塞感につつまれる。幼い頃は、そこにとくべつな感覚をおぼえていた。そのくせ、いざ自分がボックスに入ってみるとその閉塞感に圧倒され、通話している間にボックスの周りを知らない人たちに囲まれて、さらわれるのではないかという気がしてくる。その恐怖からか、ダイヤルを押す指も口調もいつもより急いでしまう。電話番号を押し間違え、はじめからやり直すこともたびたびあった。

スマートフォンがすっかり普及した今でも、公衆電話はちらほら残っている。普段使いする人が減っている昨今では災害時のリスクマネジメントとして設置されているにすぎないのだが、ときどき異様にあそこに入りたくなる。オフラインとオンラインの境目がきわめてあいまいになりつつある時代、箱に入るという儀式を通して「わざわざ誰かとつながりにいく」という行為が、とくべつなことのように思えてならない。「つながりにいく」自由の余地が、あのボックスには残されている。

これはおそらく、インターネットが存在する社会で生きる人間にしか共有できない感覚のように思う。携帯電話やインターネットが生まれる前のひとびとはおそらく、いつでもどこでもつながることのできる便利な社会を夢見ていた。たしかにそういう恩恵はある。便利だ。ただ、ときにつながりは足かせにもなる。つながりすぎることで息苦しさをおぼえることもある。

ときどきすべてを切断して、あの箱のなかに閉じこもりたくなる瞬間がある。今やオフラインを選択するのはひとつの「ぜいたく」だ。じぶんの趣味が読書料理創作とアナログぎみなのも、無意識にその自由をつかみとろうともがいているからかもしれない。

今日も読んでくださり、ありがとうございます。いろいろなものが電子化によって「アナログが消える!」と煽られますが、なんだかんだで最低限は生き残っているような気がいたしますね。