おしゃべりの練習をしたくなって、よく通っているカレー屋に行った。 ちょうどカレーを食べたい日でもあった。わたしのしごとは人から話を引き出すちからが命運をわける。そもそもおしゃべりが苦手で、まだまだ至らない点が多いので練習しようと思い立ったわけだ。

おなかもすいていたので開店ぴったりに行く。先客はなし。もう顔なじみなのでてきとうに座り、注文をし、待ち時間にカレー屋を始めたきっかけやこれまであったエピソードを愉しむ。カレーを食べながら、チェーン店にはない個人店のよさや近隣のおすすめの店について話す。ほどよい距離感を保った関係はなかなか心地よく、もうちょっと長居してみようと前々から気になっていたおさけを頼んでみた。グラスを揺らしながら近頃の駅周りの状況や、ながらく通ってくれている常連の話を聞く。やはり、数年来通っているひとびとは愛が熱い。

話していてぐっときたのは「あるカレー屋に感銘をうけて「自分が思っているよりもカレーって自由でいいんだ」と思えた」とか「(カレーの)配合はいつもおんなじようにつくっているけど、味の感じ方が日によってちがうんだ」とか、いろいろあるのだが、いちばんは「カレーは自分のこどもみたいなもんだから、褒められるとうれしい」だった。まいにちエッセイこと「おきてねむる」を始めて間もないころ、自分のつくった作品は自分のこどものような感じがするということを書いていたのだ。たしかに店主にとっての作品はカレー、これまでの人生のエッセンスやこれまで食べてきたカレーへの思いもきっと詰まっている。表現する方法はちがっても、たましいのかたちはきっと似ている。店主のことばを聞いて、「ものをつくる」ひとというのはどこかで通底した情熱というか、そういったなにかがあるのだ、と直観したのだった。

作品を生んで世に放り出せばみな等しく自分の子である。(中略)

生まれる子達の不格好さに羞恥を覚えつつも、こりずに作品を生み落とし続ける。

拙作「いとしき子を抱いて

自慢のカレーをいただく反面でこんな一節を思い出す。あれから一年弱、いまだにわたしの生むこどもたちは不格好なままだ。なじみのカレーのように堂々と出せる日を夢みて、決意を新たにこれからも書き続ける。

今日も読んでくださり、ありがとうございます。おさけを飲んだおかげでそのあとは使い物にならず。RTA動画をだらだらみて終わりました。