きのうの続き。
友人の家は相変わらず、エアコンがきいたデパートのようだった。暑い日はいつもそうだ。平日の昼下がりは多くのひとが勤めているはずの時間なので、車も人も通らない。前に来たときより蔵書がぐんと増えており、ベッドは神保町の古本市のようにいろいろな本が積まれていた。わたしはこのベッドに横たわって他愛もない話をするのがすきだったけれど、古本屋の姿もかっこいいと思った。
思いついたことを話すほかは、村上春樹の『神の子どもたちはみな踊る』と『村上朝日堂』を読んでいた。はじめは床に座って読んでいたが、やがて寝転んだ。コルクタイルの床はフローリングの自宅と違ってあたたかいし、痛くない。わたしが寝そべって床がぴったり埋まるくらいの、適度な幅も落ち着く。友人は友人で、パソコンに向かって粛々としごとをしていた。
同じ空間にいるひとが、それぞれのやりたいことをやっている時間がすきだ。理由を一言で表すのはむずかしいが「これでいいのだ。」という感じがする。そういうことができる相手というのは、お互いの雰囲気や考え方をなんとなく掴めてきていて、こういう時間がいやではないひとにかぎる。自分のやりたいことをやるだけなら、ふつうは人の家にあがる必要はないのだ。
そういうことができる人は、実はそんなに多くないのかもしれない。人と会う約束は、いっしょに何かをする予定とだいたいセットだ。「今度お茶でもしようよ。積もる話もあるしさ。」とか「もういい年だけど、みんなで遊園地でも行こうよ。ひさしぶりに会いたい人もいるだろ?」とか。「君にも会いたいし、絵の続きもしたいんだけど、いいかな。」なんていう約束は、何を隠そうわたし自身、されたことがない。「あなたのしたいことをするのに、どうして私がいないといけないの?」という方も中にはいらっしゃるだろうし、間違っていないとも思う。

今日も読んでくださり、ありがとうございます。帰るとき、友人は「またきてね」と言ってくれました。「これでいいのだ。」です。