この世に生を受けてからそろそろ四半世紀が経つが、いまだに慣れないのがひとづきあいだ。ときどきいらないことを言ってしまったり、言わなければいけないことを言い忘れたりしてしまう。過剰な言葉は相手の持つ物語を損なってしまうし、言葉が足りないと自分の物語を伝えきれない。過ぎたるは及ばざるが如しというが、本当にその通りだと思う。

物語とはいわゆる文庫のそれではなく、その人が生きてきた背景や、今おかれている環境や経験によって形成される概念のようなものだ。概念はどうもしっくりこなくて、物語と呼んでいる。たとえば鳩がきらいだ、とかJ-POPはほんとうの音楽じゃない、とか結婚してこそ一人前だ、とか、そういったものだ。中には社会通念のようになっているものもあるが、たまたまおなじ傾向性をもつひとの数が多いだけで、それがえらいわけでも、そうでないものが軽視される理由にもならない。そこに優劣を見出だしてしまうのは、他人の物語を受容しきれていない証拠ではないだろうか。

人はそれぞれの物語を持って生きていて、そんななかで他人と関わるのは、自分以外の物語に触れる機会だ。ひとづきあいのうまいひとは、自分と相手の物語を対等に見つめて話をする。へんにへりくだったり、ふんぞりかえることもない。たとえ自分のきらいな物語でもおなじだ。任意の対象をきらいなのはあくまで自分であって、相手ではないことをわかっているから、余計なことを言わない。それでいて、無口でいるわけでもなく、しゃべりつづけているわけでもない。絶妙なバランス感覚をもって相手と接し、お互いに新しい発見があったり、物語をさらに紡いだり、別の物語が生まれたり、時には何もないままおわるかもしれない。

こういうふうな接し方をしている人というと、糸井さんが浮かんでくる。MOTHERから入ってその名前を知ったのだが、ただのゲーム畑の人ではなかった。自分をころさずに人の物語を聞いて、広げていくのがとてもじょうずに見える。ほぼ日やMOTHERの中の糸井さんしか知らないので、ほんとうのところはわからない。けれども、わたしの中ではそのような物語としてたしかに「ある」のだ。

ほぼ日はコンテンツの更新がだいぶまめなので、まめではないわたしはすべてを追いかけることはできないけれど、なかでも対談のコンテンツは内容もさることながら、そのすすめかたにからだじゅうの鱗がぽろぽろ落ちて、自分の至らなさを痛感する。と同時に「こんなふうになれたら素敵だなあ」とおもう。

とくに自分には何もなかったけど、周りの人間関係が揺れた時期だったのでちょっと考えてみるきっかけになった秋の入口でした。