■個の経験と運動

秋に原爆の被曝をした方のお話を聞いてきた。内容としては自分の経験しえない話で興味深かったし、引き継いでいく必要のある歴史だというのは書くまでもないとして、最後の方で、再発させないための行動をしていくことを主張しておられたのが印象に残っている。

たしかに、そうなのだ。ロジックとしての誤りはない、と思う。ただ、当事者たるその方と、運動に加わっていくという組織の動きとの間に、私のような聴衆は大きな距離を感じたのである。そこの距離が埋まっていくことで、結果的に、大小を問わず、運動にかかわることに対するギャップがなくなっていくのかなーと思った。

距離を埋める手段としてはいくつかあり、今回のように、当事者の話を聞いて考えることもそのひとつで、まぁ、そのためにいってきたというのも大きい。が、聞いてみて、想像以上に距離を感じたので、相当自分の中で引き寄せられていないというか、身体的な記憶を伴わないからなのか、とにかく、内容もさることながら、その距離感を感じたという事実のほうが記憶に残ってしまったのであった。併せて、このことに限らず、何か社会の考え方や行動を変えていきたい!という大きなテーマにさしかかったときに、話はきっかけにすぎず、そこからどう行動を促していくかということを、もう少し具体的におとしこんで考えていかなければいけないのだろうな、と思った。わたしたちは政治家ではないので、法律をつくって行動をしばるとか、わかりやすいやり方はできない。だからこそ変えていきたいところ(あれば)に対して引き寄せて考えたり、動いたりしてもらうことの仕組みを模索できるといいだろうな。地域おこしとか、多分そういうことなんだろうと思う。

翻り、人生、基本は一人称視点のゲームみたいなもので、大なり小なり普段と逸れた世界は追加シナリオやエキスパンションパスみたいな感じがして、時や場所を隔てると、よりそう感じやすいのかな、というのを、今回のことや、民博の冊子や講演を聞いても、思うところだった。知らない物事を俯瞰してみようとすること、想像力をもって飛び込んでみること。書いたり、話したりした当人と同じ目線に立てないまでも、話を引き受けた上でどう感じたり、考えたり、行動したりするか、なのかな。あまりまとまらない部分もあったが、とにかく、素朴に感じて、考えたことはそういうことだったのだ。

読んでくださり、ありがとうございます。ゲームは一定の世界観の中で状況を切り取ってあるから入りやすいのかな。

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