◆『九条の大罪』第38審「消費の産物」11

今回のお話

九条としては、雫に軽度の知的障害があり、修斗(フルネームは中谷修斗)に精神的支配を受けていたことから、心神耗弱を認めてもらい、実刑を軽くする、という判決を狙うようだ。雫は「人を殺して死刑じゃないんですか?」と意外なようすで、死刑でもいい、修斗に地獄で謝りたいと話す。見かねた九条はノートを差し出し、思い悩むことがあれば書き留めるよう伝えるのであった。
事務所に戻り、雫の処遇についてやりとりをする九条と烏丸。ダイニングテーブルのようなところには薬師前がいて、やりとりを聞いている。烏丸いわく、罪状を考慮しても、執行猶予つきというのは「犬が判決文を読み上げるくらいの軌跡が起こらないと無理」だという。だからこそ、九条は烏丸に精神鑑定の請求を命じ、烏丸も生育歴と家庭環境を根拠に情状鑑定(罪状以外の事情を判決の量刑を決める際に参考とし、刑の重さを決めること)を行い、修斗から精神的に支配されていた状況を主張する向きでいくようだ。雫を気遣う薬師前に対し「まぁ人殺して大丈夫ではないのでは?魚を捌くのとは訳が違いますからね。」と九条。言い方が癇に障った薬師前は舌打ちし、九条につっこまれるが、雫のところに毎日面会しに行くつもりだというせりふにおどろき、聞き返す。独りで思い悩むのには荷が重すぎる案件だと九条がこたえると、薬師前はおどろいた表情をみせるのであった。

場面は変わり、デリヘル嬢をホテルの前でおろす外畠。その表情はげんなりしている。雫の裁判で得た慰謝料も競馬や仮想通貨への投資でほとんど使ってしまったという。神社の中で、以前でてきた、外畠に金を貸した人物(名前は出ていなかったと思う)と路上(?)飲みをしている。喫煙もしているし、なかなか不届な輩であることが強調されている。雫の名が出て、事件の心配をする男に対し外畠は、身内に人殺しが出たら自分も犯罪者だと責めるのかとイライラした口調で捲し立てる。本当に利己的な人物である。男は、雫に弁護士をつけるといったことについて心配してくれていたようだが、亀岡から連絡がきたものの弁護士費用が高く、殺人の弁護などどうにもならないので国選弁護人にすると突き返したという。ただ、雫は自分で弁護士を頼んだというのでお金を持っていた。それを脅しとればよかったと外畠。それをよそに、弁護士がついたことに安心する男。そこで外畠は、衣子(雫の母)が仕事で留守の間に雫を手篭めにしていたことを話す。ドン引く男だが表には出さず「すごいっすね」とだけ返し、雫が起こした殺人と自身の性欲とは別だと外畠は話す。
男は外畠が落ち着いてきたのをみはからって話題を変え、オーナーから連絡があったかを確認する。外畠は、今夜呼ばれたが用件を知らないようだ。少し距離をとり「さぁ……」とうそぶく男。境内に捨てられたタバコは、外畠の今後のメタファだろうか?

さて、いよいよ裁判の前だろうか、向かう九条に対し、亀山が声をかける。「なんで貴方なの?」と訊かれ、九条は文脈がわからないという。亀岡は雫の件で、なぜ自分ではなく九条に依頼したのかとあらためて問うのであった……。

感想

時間軸が現代に戻り、おもしろくなってきた!雫を単なる精神疾患ではなく軽度の知的障害で通そうとするのは、話を聞いて雫の知能レベルがその領域だと感じたからなのだろうか。障害者手帳のくだりから、雫はなんらかの(おそらくPTSDだと思うが)精神疾患に罹患していることはうたがいようがない。そこをあえてはっきりと軽度の知的障害というのは、裁判が有利にすすむのだろうか?ただ、「弱者の一分」編の曽我部と異なり、こんどは殺人と一気に罪が重たい。日本の死刑を考えるにあたっては永山基準があり、雫が死刑になることはまず、ないだろう。永山基準については長くなるので割愛するが、永山則夫(事件当時19歳)が起こした事件をもとに、9項目を勘案して死刑かどうかを総合的に判断するための基準である。それに加えて生育歴や家庭環境を洗い出せば、性にかんするトラウマの部分も掘り出され、情状酌量の余地は大いにありうる。
雫のこれまでの足跡を考えたとき、前にも書いたかもしれないが、雫は形を変えながら性的に消費され続けていることがわかる。初めは部活の顧問による度重なるレイプ、バスでおじさんに触られたこと、その後に外畠による家族内(法的な結びつきはないが……)における性被害、そして修斗の色恋営業の売掛金を払うためのAVデビュー、そして風俗での仕事である。今回の「消費」はこの性的な搾取=消費がおおきなものとしてある。そのうえで、雫自身の自己肯定感や安心感、本来あったはずのキラキラした時間というものが削られていくようすも、ひとりの人間としての尊厳を大いに失わせる、深刻なものであり、これもひとつの「消費」というべきかもしれない(もはや「消耗」のレベルであるとわたしは読み取っている)。後者については亀岡が前半の演説でいっていた「魂の殺人」そのものだろう。ただ、亀岡の糾弾していたAVじたいは、魂の殺人と必ずしもイコールではない。ここが注意して読み進めるべきところである。おそらく、雫はAVを続けて修斗に会い続けるのであれば、今回のようにならなかったのである。今の日本において、職業選択には自由がある。雫も、そして白石桃花も、決してそれ以外の選択肢を選ぶことができずにそうなった、というわけではない。そういった部分こそ、九条が「思想家や活動家はいい弁護士じゃない。」という所以なのだろう。
事務所に戻った後で薬師前が、九条をちょっと見直したかもしれない、という場面もよい。今後も様々な部分で反発しあうふたりだが、依頼人ないしは当事者のリスクを最小限にしたいという思いは両者とも共通するはずである。雫についても、薬師前が出てきてくれたことはよかったと思う。

さて、外畠と男のやりとりの場面は、神社という一般的には神聖な場所での路上飲み兼喫煙、話題も殺人の弁護や(ほぼ)身内との姦通と、タブーだらけだ。2人のやりとりを睨みつけるように描かれる狛犬や、最後に捨てられる吸い殻も、閻魔大王の審判ではないが、なんだかそういった予兆を感じさせる。路上飲みの相手の男も外畠に10万貸していることや、雫の母のスナックにもツケがあること、デリヘルの送迎の仕事を手配してもらったこと、リーダーであるデリヘルのオーナーに呼ばれたということは、外畠の制裁はリーガルなものではないにせよ、何かが起こるのだろう。以前、外畠は「俺がルールだ」と豪語しながら歩いていたが、より強き者のルールに組み敷かれることになるのだろう、おそらく……。

さいごに、亀岡と九条だ。亀岡は外畠に連絡をして断られており、九条は雫本人から弁護を依頼されている。亀岡は白石桃花の件でわかるように、当事者の訴え(今回であれば、DV彼氏の暴力に対する依頼)を忠実にこなすというよりは、自身の大義に則ってうまく案件を利用し(だからこそAVレーベルを相手取って裁判を起こした)、かつ依頼人にもおいしい思いをさせるという形で仕事をこなしてきている。だが、雫においては外畠を通して(しかも慰謝料目当てで)AVの裁判を起こされたことによって、たちまちひどい境遇に追い詰められてしまっている。親が勝手に裁判をしたという話にもあるように、亀岡と雫は接点が乏しい。また、亀岡の連絡する先が外畠というのも不運だ。一般的に殺人事件の弁護にかかる費用を調べてみたのだが、きちんとは出てこなかった。ただ、暴行のみ相手が死んでいない場合でも着手金は40万を超えることが多いそうなので、九条の着手金である一律33万、保釈の謝礼も一切受け取らないのが基本方針(参考:「家族の距離」13)というのは相当良心的である。知り合いに借りた10万をすぐに返せない外畠にとって、弁護士の着手金など到底払えたものではないだろう。今回は粟生に土下座する雫にたまたま会えたことが大きいけれども、そういったコンタクトのしかたの違いも、亀岡と九条のやり方のちがいが見えておもしろい。亀岡としても、二言目には慰謝料、という外畠が信用ならざる人物である、といった見方はあまりしなかったのだろうか?とか、思ってしまうものである。また、次週この問いに対し、九条がどう答えるのかがみものである。
以前、九条が兄である鞍馬蔵人と父の墓前で鉢合わせるシーンがあるが、そこで九条が言った「あなたには見えなくて私には見えてるものがある。」という台詞は、もしかすると亀岡と九条の間にも当てはまるのかもしれない、と思う。
それにしても、九条の営業のしかたはふらりと現れて声をかけるような感じで、なんだかウシジマくんと似ているなぁ。

最後は余談になるが、本作がウシジマくんと最も異なるのが、九条のステータスが圧倒的に社会的強者の側にある、ということだ。弁護士という文系最強の国家資格は、たとえ血縁ときわめて険悪で、妻子と離れて金銭をほとんどくれてやった身だとしても、その権威は健在である。そんな中でも九条は、一癖も二癖もある依頼人の弁護をしている。丑嶋と同じく、依頼人の貴賤は問わないし、料金(金利)も一律だ。しかしながら、九条を経由して得られる・守られるものは丑嶋とくらべてみるとあまりにも大きい。刑務所に入ることなく日々を変わらず過ごす権利であったり、世の中にスキャンダルを流布されない企業としての信頼であったり、存命中には返せなかった父への思いであったり、その内容は第4集発売前にして様々だ。九条を経由することによって見出される権利や信頼は、弁護士でないと担保できないのである。ウシジマくんと同様現代社会を克明に描いた作品であるのは疑いようのない事実だが、主人公が士業ならではのおもしろみが、この作品にはふんだんに詰め込まれているように思う。
同時に、この社会(もしくは世界)において、持ちし者が持たざる者に対して、どういった振る舞いや行いをなすのが適切であるのかということについても、わたし個人としてはひじょうに考えさせられるところである。

読んでくださり、ありがとうございます。今、貧困にかんする本をみているので、最後のぶぶんはそこに触発されているのも大いにあります。

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