「理想のくらし」ということばがある。ときどき、そのことについて考える。
わたしには野望が少ないし、これまでの生きる糧も「スピリッツに掲載される『闇金ウシジマくん』の最新話」だったので、なんというかこう、人生に多大な期待をもって生きているわけではない。宝くじが当たるとか、3LDKのファミリーとか、車とか、そういうのは全然興味がわかない。
だからといって、今すぐ死にたいわけでもない。それなりの高度で飛び続けるのが、もっともがんばりすぎなくてもよいし向いている気がする。
そんなわたしの思い描く「理想の生活」とはなんなのか。なにが豊かであれば満足なのか。
雨の金曜日、図書館に行った。人はまばらで静まり返っている。いつものように予約した本を借り、閲覧席で読む。頁を繰りながら「こういう時間っていいな」と思えた。
朝に文章を書き、質素な食事をつくり、筋肉を鍛えて本を読む。ときどきゲームに熱中してみたりもする。精神障害と社会のつながりをもっと知りたくて、精神に関わるしごとをしている。歴史だって気になれば読んでみる。日常のなかで少しずつ、現環境のほころびが見えてくる。それを打開せんとする人々の取り組みを聞く。
書き出してみて、不満らしい不満がない。読み返すと、やりたいことしかやっていないのだ。しいて言えば今はふたりぐらしで、ゆくゆくは一人で自活できるくらいの経済基盤が作れれば言うことなしだが、急ぐことではない(たぶん)。
これ以上望むものがないとき、マイナス要素の少ない状態を豊かさと捉えてもいいのではないか。どうしても「豊かさ」というと現状に足し算しようとしてしまう。しかし、いつなんどきも「より多くある」ことが豊かさと直結するわけではない。げんに、今のわたしの生活に何かを足せば、どこかが崩れるのは必至だ。
よくお坊さんが「自分の器を知ることが大切です」という。それは、まさにこういうことなんじゃないか。思えばデルフォイの、アポロン神殿の入り口にも「汝自身を知れ」と刻まれている。にんげんが求めるところのものは、何千年経っても変わらないのかもしれない。
今日も読んでくださり、ありがとうございます。ひとまずは現状維持です。
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