例年より暖かい日々が続いていたようだが、今週からようやく冬の支度をはじめたのか、朝が少しだけ冷えてきた。起きるのがつらくなってくるというのに、目だけはしっかり5時半に、いや……なぜかここ2週間程、4時半に覚める。いくらなんでも、そんなに早くめざめなくともよいではないか。
今は心身の不調があるので、目が覚めるとふとんの中でくつしたとずぼんを履いて、6時半ごろまでじっとしている。シャツは皺になるので、ふとんを抜けでてから着る。これ以上何かにおびやかされないように、あえて活動をおさえている。朝の活動が日中に支障をきたしては元も子もない。
冬の入口にさしかかるともう虫は鳴かない。さえずる鳥の数もあきらかに少ないし、太陽の光も入らない。今日はとくに曇っていて、雨戸をあけても部屋が仄暗いので電気を点けた。電気を点けると朝にしてはいささか眩しく、なんともむずかゆい心地がする。
これまではせみだ台風だと、外のできごとを感じとっては書き物の足しにしていたが、冬に突入するとそうもいかなくなってくる。たしかに独特の寒さや暗さ、そこからくるものさびしさに触れることはできるし、一度くらいは書いてもよかろう。しかしこの季節にはそれよりもっと、感覚してしまうものがある。おのれ自身である。
静寂は、自己の内面へ向かうのにはうってつけの要素である。とくに冬はその寒さからか、自らを「聞く」耳、「視る」目がこれまで経てきた季節よりも鋭くとがる。冬の朝は「考えすぎてねむれない」夜のような顔をして、わたしのめざめを待っている。夜とちがって疲れはないので、思考は透明なかんじがする。まっさらな自分が孤独の朝に投げこまれ、これまでのこと、今のこと、そしてこれからのこと、さまざまな思いが頭の中をかけめぐる。もろもろの真意がわかるのは次の春だったり、ずっと先だったり、はたまた出ないこともある。答えが溶けだすまで、冬は氷の積み木を積みつづけて過ごす。
今日も読んでくださり、ありがとうございます。氷の城は毎年高くなっていきますので決して溶けきることはありませんけれども、そんな冬がわたしはすきです。
コメント
[…] きのうに引き続き寒さをさきどりしたタイトルで、冬を苦手とする方にはひじょうに申し訳ない。冬の入口でこんなに「氷」とか「つめたい」とかいうことばから出発していたら、ほん […]