◆第三の原動力

以前に「おもしろい」と「かっこいい」が行動の決め手になっている、という話を書いた。それに加えてもうひとつ原動力がみつかったので記しておこう。

知識欲だ。

「そのものが何であるか」「なぜそうなのか」ということを、知りたいきもちが小さいころから強かった。何かにつけて「なぜ」と問うた。親は「なんでも」と雑にあしらってくるので、次第に問うことをあきらめていった。大学の友人に「なんでちゃんだ」と言われることもあった。ものごとの因果のあいまいなまま行動に取り掛かれるにんげんがいると、そうしていられるのがふしぎでしかたなかった。

ちかごろは読書の時間をきちんと取れるようになってきて、他の趣味に割く時間が徐々に減ってきている。とくに休みの日は顕著にあらわれている。本は知恵をさずけてくれる。じぶんの想像力の外にあることばが詰まっている。知識欲まみれの輩にとって、図書館は宝石箱だ。だから少し遠くてもいちばんおおきな本館まで歩く。

今のしごとをしているのも「社会の役に立ちたい」というより「その分野のことを知りたい」と思ったからだ。ひとを助けるしごとをしているくせに、結果的に役に立てばラッキーだったな、くらいの意識しかない。だから「相手の役に立ちたい」とか「いいことをしたい」という思いの強いひと(あくまでわたしから見た印象だが)とは、ちょっと馬が合わない。

そしてひとづきあいにも、知識欲が絡んでいる気がする。たくさんおしゃべりをして別れると「たのしかった。でも、次はちょっと先でいいかな。」と思ってしまう。どんなに仲のいいひとでもそうなる。他人という別世界に触れるのは、ためになるし、おもしろい。しかし、脳のキャパシティは飽和して、インターバルがほしくなる。たくさんしゃべればしゃべるほど、その傾向は強まる。10年、15年と長続きしている友人はみな、適切な濃度を保ちながら過ごせている気がする。

「おもしろい」「かっこいい」そして「知りたい」。これがわたしの三本柱だ。

今日も読んでくださり、ありがとうございます。今の職場で知的好奇心がみたされなくなってきたら、転職のサインかなと感じています。

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