ふと「絵や文をかいていると、余白がすごくむずかしい。」とこぼしたことがあった。絵であれば、塗らないままの白色をどこに残して絵を活かすのか、文章なら余計なことばを削ったうえで、どのように読者の想像の余地を残して表現できるのか。

芸術にかぎらず余白はだいじだ。会話ひとつとってみても、余白のないことばの投げ合いはなんだか圧迫感を感じて、ことばが喉元で詰まってしまう。会話における余白は沈黙や間がそれにあたると思うのだけれど、使いかたがむずかしい。お互いがなんとなく消化不良のまま別れねばならない会話が、これまでにたくさんあったような気がする。

わたしのぼやきを聞いていたともだちが「御影さんに余白を感じない」とぼそっと言った。「わたし自身に?」と尋ねると、彼女はうなずく。

唖然とした。今年はこれまでの過活動や過剰適応を反省して活動範囲や交友関係、生活のしかたを見直してきたつもりだった。できることの総量がコップ1杯ぶんだとすると、今までは1lの水をじゃぼじゃぼと注いでいたような感覚であった。それを1年かけて適切なボリュームに抑えたと思っていたので、それでも尚余白がみえないのだとすると、わたしというにんげんのもつ容量はとてもすくなく、へたしたらシャンパングラス1杯ほどしかないのかもしれない。

1年を思い返してみれば過活動・過剰適応の時期も散見され、結局消化不良のまま終わってしまった取り組みや、いかんともしがたい結末を迎えたこともちらほらあった。彼女の言ったことはあながち外れていない。自らの生全体を眺め、きめこまやかに洗練していけるといい気がする。いろいろなことを洗練していければ、自ずと作品にも影響していく……ような気がする。

今日も読んでくださり、ありがとうございます。総容量を拡張する、というのも同時にできるとよいのでしょうけれどねぇ。