◆にんじんのきもち

この二週間、にんじんを探していた。きりぼしだいこんや紅白生酢など、にんじんがあると映えるレシピを作ろうとしていたのだ。しかし、行く先々で陳列されているのはにんじん以外のものばかり。あれだけ売っていたにんじんたちが、いない。思えばにんじんは冬野菜。直売所にはほんの少し早めに春がくるので、姿がないのも頷ける。「だったらスーパー行けよ」という声が聞こえてきそうだが、わたしはスーパーが苦手なので、できるかぎり行きたくないのだ。げんにスーパーの買い物は、だいたい同居人にお使いしてもらっている。

わたしは好き嫌いの多いほうで、なかでもにんじんは「だいぶ」嫌いな部類に入る。他方でにんじんは、食事づくりにおける影のエースとしての地位を確立しつつある。肉料理に添えるにんじんソテーのきらめき、野菜炒めに紛れ込む細切りのアクセント、和風の煮物にごろっと入った、ほかの野菜が茶けているなかでも赤々としたその姿。にんじんは彩りを出すのにうってつけの野菜なのだ。野球で例えるならばきっと、花形のにく・さかなという名のピッチャーを支え、全体の彩りをにぎるキャッチャーだろう。

だんだん、にんじんを探しているのが恥ずかしいことのように思えてきた。毛頭すきになれない野菜のことを、彩りめあてで探している。わたしは今、自らの見栄のためにタイプでもなんでもない、つまらない造形をした女をそばに寄せようとしているのだ。意中の女が振り向かないことを、知っているからだ。しかも女は、そのことを知っていながら、わたしの方に寄ろうとする。哀れなおとこの姿が頭に浮かぶ。にんじんのきもちもその、造形のつまらない女とおなじだと思った。わたしはにんじん探しをやめた。

全体のいろどりは落ちこんだが、問題なくやれている。そもそも、食べたくないものに食費を捻出し、作り、いやいや食べるのもおかしな話である。何よりにんじんが不憫である。ということで、しばらく我チームはキャッチャーなしでやっていく。

今日も読んでくださり、ありがとうございます。ポストにんじんを探している最中です。

コメント

  1. […] 2月のあたまに「にんじんのきもち」というエッセイを書いた。苦手な野菜を彩りだけのために買うのはやめようという決意表明を、野球と男女にたとえたエッセイである。読み直してみ […]

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