アラビア書道の展示をGWに見てきてから、そのことをどうも忘れられないまま過ごしている。作品が美しかったのはもちろんだが、文字そのものが絵のようでうつくしいのだ。ただ美しい・おもしろいのは他の展示もいっしょで、しかし「どうも忘れられない」というのが引っかかるところだ。
英語やドイツ語を勉強しているときはさほど感じなかったのだが、韓国語はちょっとだけそれがある。SNSなどで見かける手書きのハングルは、なんだかとてもかわいい感じがする。躍動感とでもいうのか、とびはねるようなうねるような、感覚でいうと触覚に近い。ただ、躍動感はあるものの「もっと知りたい!」というところまではいかず、役割としては文字の段階にとどまる。どうやら、アラビア文字はそれともまた違った感じである。
日本におけるアラビア書道の第一人者・本田孝一氏の、アラビア書道に関する10年以上前のインタビューがあるのだが、そこで「アラビア書道には音楽的なリズム感があって、本当に音楽が聞こえてくるような気がしませんか。」と語っておられた。いわれてみれば音符に似ているかも。
と同時に、大学で古代ギリシア語を習っていときのことをふいに思い出した。古代ギリシア語は、朗読したとき、詩を読んでいるように美しいという。たしかに、当時の自分のたどたどしい読み上げでも、リズムよく単語が置かれていることはかろうじてわかった。そもそも文献に残すための文字としての古代ギリシア語を読み上げることは本筋ではないが、おそらく神話や喜劇・悲劇に代表される古代ギリシア世界に生きたひとびとは、文字を見ただけで音が踊りだし、吟じてしまうような、そういった素養が備わっているのだと思う。
アラビア語に話は戻り、作品を見て回るなかで、それに近い何かを感じたのだった。そもそも、大学を選ぶ基準も古代ギリシア語を習えるかどうかは大きく、それが直接生きていく糧(ようするに「食っていく」こと)とつながらなくても、その世界を知りたいという好奇心が大きかったような気がする。今回のアラビア書道も、もっと作品を知ってみたい・イスラムだけではないアラビア世界を見てみたい・なんなら習ってみたい、という気持ちがうずいている。
調べてみると国内のそこここでレッスンを開講しているらしく、アラビア文字がわかっていなくても参加ができるということだった。今すぐ始めるには少し都合がつかないところがあるので、東京ジャーミーを訪問してモスクの中の壁画をみたり、アラビア語が飛び交う場所で座って過ごしてみたり、近隣で展示があればそれも見てみたりして、それでもやっぱり気持ちがくすぶるようであれば、前向きに考えたい。
読んでくださり、ありがとうございます。移住を考えている先にはレッスンがないので、こちらである程度会得してからの転居なども、目標を決めて取り組むと言う点ではいいのかな?と。広がるといいのだけれど。
コメント