◆いとおしい傷

さすがに20も半ばをこえたので、走ってころぶとか、ジャングルジムのてっぺんから落ちて気絶することはなくなった。しかし、持ち前の注意力の散漫さからか、小さな怪我は絶えない。敷布団に滑って足をひねる、熱した鍋に手首が当たってやけどをしてしまう(これが一番多い)、ゲームをしすぎて手が腫れる、心当たりのない箇所にアザが発生している……書いてみると、けっこういろいろある。

ちょっと変なことを言うかもしれないけれど、わたしはこういった怪我たちがきらいではない。あざもやけども押すし、ひねった足も破裂しそうでしないマメもよからぬ方へいじって悪化させる。 この時期だと掻きこわしも「すき」な部類なので、虫刺されもじゃんじゃか破裂させていく。こうしてじぶんについた傷には近づいていくくせに、他人がかさぶたを剥がしている光景やドラマ等の手術シーンは目もあてられない。妙なものである。

挙げた痛みたちに共通しているのは、その軽微さだ。軽微でありながら痛覚を脳がきちんと認識する。じつは思春期以降、肉体から脱出して魂だけの存在になりたいという気持ちが強くなっていて、それは今も変わっていない。そのせいかそうでないのかはよく、わからないけれど、しばしば、じぶんのからだがじぶんのものではないような感覚に陥ることがある。このとき、軽微な傷たちはよそへいこうとしている意識を、わたしのからだに押し戻してくれる。肉体から脱出したがっている反面、肉体とのつながりを確認し、安心している。

だからといって、すすんで自傷行為はしない(厳密には「できない」。自分から積極的に傷つけにいくのはこわいのだ。)のだけれど、いつぞや見た、リストカットをしている人のことばのなかにあった「血が流れることで生きている実感がわく」というのは、わからないでもない。さすがに「生きている実感」とまではいかないが、「他ならぬこの肉体で」生きているのだなぁという実感はわくものだ。

持ち前の散漫さがあたまとからだを接続し直していると思うと、あながち邪険にもできない。注意力は治そうとして治るものでもないだろうし、もはや知らないうちに怪我をしていることもある。今日では「定期メンテナンス」機能として、じぶんの散漫さを正当化しつつある。

今日も読んでくださり、ありがとうございます。いつついたのか知りませんが、今も指の腹が2,3本、浅く切れてます。訳あり品のめんたいこみたいです。

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