20歳になって間もないころ、肉体がじゃまでじゃまでしかたがなかった。遠方の人と縁が深かったこともあるし、メスの体を持つことが性そのものに直結してしまうという事実が疎ましくてならなかった。おそらく人生のなかでもっともいろいろなことがあって、自分の肉体の有り様や意味について考えた時期だった。そのときは精神的不調をきたしていた時期と重なるので記憶もあいまいだし、やっとのことで思い出した記憶が正しいのかどうかすら胸を張れないのだが、とにかく概念のごとき「たましい」になって生きられたならどんなにいいことかと思っていた。ゼノギアスにでてくるゾハルのように、脳内に直接語りかけてくる声のような存在になりたかった。お互いに。
そういう願望はしょうじき今もある。ことあるごとに、たましいという概念存在は、わたしを誘惑しにどこかから不意にあらわれる。気を抜けばそのことについて考えてしまう。代わり映えしない日常にもかかわらず、ここ半月くらいはやたらとたましいについて考えてしまう。眠っているときは肉体と離れる感じがしてすきだ。単なる疲れではなくそういった効果も感じていたから、暇さえあればまどろんでいたのかもしれない。
そんな無謀な願いを胸にいだいて十年弱、今になってひとつ変わったとすれば、筋トレによって肉体の嫌悪感というものを、ほんとうに、ほんの少しだけ払拭しつつあることだ。それがよいのか否かはわからないが、肉体を忌み、粗末にするだけの日々よりはましだろう。現状の肉体の否定という意味では、筋トレもたましいになりたいも根っこは同じなのかもしれないけれど、自明に方法のない「たましいになる」より「筋肉をつける」方がよっぽど現実的だし、健全な気がする。
それでもやはり、たましいになりたい気持ちは捨てられない。肉体とたましいを分離できるような時代がきて「たましいになれますよ」とそそのかされたら、すべてをすてて飛びついてしまうかもしれない。 そんな未来がきてほしいような、きてほしくないような……そんなはざまに今、立っている。
今日も読んでくださり、ありがとうございます。SFを書くのはじぶんの願望とそれに対する危惧、というのもあるかもわかりませんね。
コメント
[…] 前にじぶんの肉体を忌み嫌っているというエッセイを書いたが、「食べる」という行為はからだを捨てて行うことができない。手に取り口に放り込み噛みしだき飲み込む。からだなし […]