◆純粋なる痛みの体験

きのうの入浴後から肩がもうれつに痛みだし、どちらに動かしても楽にならない。けっきょく思い当たる原因が見つからないまま、ふとんの上で絶えず姿勢を変えつづける不気味ないきものと化していた。それが朝起きてだいぶ和らいだものだから、一体あの痛みはなんだったのか、そもそもほんとうにあの痛みは現実だったのか、もしかすると夢の出来事だったのではないか等々、様々な思いが頭の中を交錯した。ほんとうのところはもう、過ぎ去ってしまうとわからない。
これまでの人生で、肩の痛みに悩まされたのは初めてだった。いろいろなからだの痛みを経験してきたが、肩は痛みを感じている最中、他のことを考えることができなかった。ただ独りで「痛い」「痛い」と、芋虫のようにのたうち回りながらむなしく抵抗するほかない。この点が他の痛みと違う。わたしが主に痛くなるのは頭とおなかだが、どちらも何かを考える余裕は辛うじて残っているのだ。
痛みというのはふしぎなもので、その箇所や度合いによって考えることはがらりと変わる。上で出した頭とおなかも、痛みのありようは違う。わたしは痛みをことばで置き換えるのが苦手なのだが、頭は「ずきずきと刺すような痛み」、おなかは「ぎゅうぎゅうと圧迫されて絞られるような痛み」だろうか。頭の痛いときは今までの行いを懺悔したいようなきもちに駆られる。思い当たる節がなくとも、どこかで罪の意識を持って生きているらしい。一方おなかは神に祈るような心持ちになる。だいたいおなかを壊したときに痛くなることがほとんどなので、社会的立場が崩壊する最悪の事態(要するに公衆の面前で「漏れる」ということだ)を避けたい気持ちが先に立つのだろう。第三者的な配慮がはたらいているので、頭に比べるとおなかの痛みはたいしたことがないのかもしれない。
おもしろいのは、いずれも痛みが去るとそういった考えは嘘のように吹き飛ぶことだ。はなはだ無責任なものだと我ながら苦笑してしまう。無意識とはいえ、懺悔も祈りも痛みを取り去るための儀式的な行為だとするのならば、それ自体が聖なるものに対する冒涜だろう。それに対して肩の痛みは何も考えられずに「痛い」ともがくだけだから、ある意味では純粋に「痛み」の体験なのかもしれない。
今日も読んでくださり、ありがとうございます。いま痛くないからいろいろと考えて、こう書けています。しあわせなことです。

コメント

WP Twitter Auto Publish Powered By : XYZScripts.com