Twitterで、男性と女性では声を出すときに使う箇所が違うというつぶやきを見た。研鑽を積めば、両声類(男女両方の声が出ること)になることも夢ではないという。そのつぶやきを見てふと、じぶんが既に両者を使い分けていることに気がついた。

何度か書いたかもしれないが、わたしは幼少の頃より男の子にあこがれていた。それは今でも潰えることなく、心の中に残っている。むかし低めの声でしゃべる練習をしていた名残か、今では場面によって男声と女声をしぜんに使い分けている。

具体的にいうと、女声が活躍する最たる場面がしごとだ。仕事柄、要請される人間像とわたしの声は相性がいいらしい。しごとでは人とのやりとりが大量に発生するので、クライアントの方から「みかげさんの声を聞くとなんだか安心します」とか「かわいい声で癒やされます」とか、下手をすると同僚から「歌えばすごく映えそうなのに」等々、好評価である。しかしながら、低く渋めな声をこのむわたしにとって、この高い声でしゃべっているとつらいときがある。テメーは誰だと、心のなかにいる男が凄む。女声のわたしも重々わかっているので、たじろいでしまう。

ぎゃくにしごと以外の場面、とくにゲームでは男声だ。あきらかにひくい。そして戦闘民族のスピリットが前面に出てきて、大ぶりな言動もでてくる。男声が出てくるりくつは単純で、女性であることを求められないからだ。だが、全ての場面で男声かというと、そうでもない。

気に入っているのはあきらかに男声の自分なのだが、おそらくわたしは、男女を演じ分けることによるベネフィットを多分に感じながら生きている。とかく今の日本は、女だというだけで優遇されやすい風潮にある。それに加え、仕事外でも女声でひととしゃべっているときのほうが相手からの印象もいい。「みかげさんの声は癒やされます」と言われるのは、ぜんぶ女声でしゃべる相手からのレスポンスだ。「癒やしの時代」と言われて久しいが、現代社会の強者とは決していえないわたしのような存在が生き延びるにあたって、この強みを無視するわけにはいかない。

わたしは弱いしずるいので、社会的要請や他者評価という、大切なようで実はくだらないかもしれないベネフィットに踊らされ、今のようなどっちつかずな生き方をだらだらと続けている。自己や他者に対して不誠実な感覚をおぼえることもあるが、そのずるさも含めて「わたし」なのだろう。

古代ギリシアにおいてアリストテレスが 、人間は個人が唯一的に存在しているのではなく、常に他者、いわば社会との関係をもちながら存在している、ということを書き残している。そしてそれは、2000年以上経った今もぜんぜん変わっていない。環境面では大幅な躍進を遂げたこの星において、にんげんそのものは果たして成長しているのだろうか?そんなことが頭をよぎる朝だった。

今日も読んでくださり、ありがとうございます。みなさんがこのエッセイを読んでいるとき再生されるのはどちらの声なのか、ちょっと気になりました。