◆忘れることのたくましさとおそろしさ

きのうは一日外出していたのだが「過ごしやすい日だなぁ。」と思った。6月の梅雨明け以来異様な暑さを味わっていたからか、涼しさすら感じてしまった。

気温をさかのぼってみれば27°/18°、とりたてて涼しい日ではない。猛暑酷暑にあてられて、からだが高温に最適化されていたのだろう、だからこそ27°で「涼しい」と思ったのかもしれない。文明がいくら進んでいても、人間のからだには、与えられた環境に順応する力が備わっているのだなぁ、と感心する。これは暑さに「慣れた」ともいえるし、本来持っていた温度の記憶を「忘れた」ともいえる。何十年も生きているというのに、たったの1ヶ月強で温度に対する記憶が上書きされてしまったことに、おそろしさを覚えた。

「死ぬことよりも、忘れられることの方がこわい。」ということばがある。ひとにとって、忘れることはときに必要なことだけれど、やっぱり忘れることそのものについて考えると、なんだか果てしない迷宮の中に投げ込まれてしまったような感覚に陥る。忘れてしまえばそのことはなくなってしまうのに等しい。本当は存在しているというのに、認識できなくなってしまう。透明な迷路のようだ。
死はそれを迎えた瞬間で終わりになる「点」だけれど、忘却は忘れられてしまったあとも続いていく「線」だ。だから「忘れられることのほうがこわい」のだろう。

とうぜん気象は死なないし、過去のあれこれを人に忘れられても「こわい」と思うことはない。しかし忘れてしまう側の「わたし」が、今までの人生の100分の1にも満たない小さな時間で、それまで堆積した記憶をきれいに洗い流してしまったということが、底なしにこわかった。そして今回感じたおそろしさは「わたし」が忘れないかぎり続いていくという事実にも、言い知れぬ圧力を感じた。このことは気象に限らずなんでもそうで、既に忘れてしまっていることなど山程あるのだろうなと思った。

小学生くらいのころ、30°で暑い暑いと言っていた日々に1日だけ戻ってみたい。感覚を伴わない記憶はなんだか不気味で、果たして本当に存在していたのかどうかすらわからなくなってくる。

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