水曜の夕方ごろから、特定の人間に対する被害妄想が出ている。被害妄想というのは妄想でありながらなかなかのパワーを持っているようで、心中がざわつき、ざわつきを処理しきれずに叫びたい衝動にも駆られる。もちろん内容が内容なので不安が募り、そのひとへの不信感も増す。本当はすぐ相談したいことなのだが、やはりこういったことは相手を選ぶ。
今回はたまたまアトリエに行くタイミングだったので話せるひとがおり、そのことを相談してみた。その人はわたしの言い分をひととおり聞いて「そうなんだ。なんで被害妄想ってわかるの?」と逆に尋ねてきた。それを受けてわたしは「実際にその人や、その人の周りの人に聞いてみたときの反応を想像したときに「そんなことないよ。考えすぎだよ。」と言われそうだから。」と返した。
しかし自宅に帰ってから考えてみると、だんだん「なぜわたしは上記のことが被害妄想だとわかるのだろう?」ということのほうが疑問に思えてきた。あちらこちらに考えが及んだ結果「被害妄想だと思っていること自体がすでにひとつの妄想なのでは?」というところに着地した。事実関係は当人に聞かないとわからないからだ。それに、聞いたところでそれを素直に受け入れられるかもあやしい。
「なぜ」を問うてくれた相談相手にお礼をすると、その人は以下のように返した。以前も何かの話をしたときに、やりとりした内容だったと思う。
「おそらく世の中すべての人が、それぞれの妄想の中を生きているのではないだろうか。その妄想はやはり、その人によって作られたものだから……妄想は今の自分を映す鏡のようなもの、と捉えられるかもしれない。」
ひとは自分の認識したいようにしかものごとを認識できない。そこに妄想ということばを当てはめるセンスはなかなかのものだ。誰かにとって真実でも、別の誰かにとっては妄想かもしれない。そう考えると、認識というものはきわめて相対的だ。その相対性の中に、わたしの被害妄想とおぼしき事象も溶け込んでいる。そんな人々でいっぱいの社会ならば、ひとつの事象に対して誤解や食い違いがあることも、多様性が生まれることも何らふしぎではない。

今日も読んでくださり、ありがとうございます。昨日は18時ごろから眠って起きてまた眠って……記憶が整頓されたのか、ちょっと気楽です。