吉川英治の随筆が全集の40何巻かにまとまっているのだが、そのなかで、「小説は一般の読者を想定するので気を使う」というようなことがあった。それと対比して随筆の方は、気づいたら庭の草のように生えているのだというところで、インプレッションの得方や書き方の違いがあるのだろうなと思った。
確かに考えてもみると、職業として小説を書いて暮らしていくことを考えれば、世俗の世界を無視するのはむずかしい。いかにして自身の意図に近い形でおはなしを書き表すのか、ふだん、意識せず口に出す語彙や言葉のつなぎかたとはだいぶ違っているかもしれない。伝わらなかったり、過剰にわかりにくかったりしたら売れないとなると、時代が何を感じているかや、人々がどういったものの考え方をする傾向にあるのかなどに感覚を研ぎ澄ませる必要があるだろう。とはいえなにも、小説に限らず職業とは往々にしてそういうものかもしれない、とも思う。そういった他者、多くの場合は顧客になるのかな、に対する気遣いや想像力がある人のほうが、しごとに限らず、なんだか人生がうまくいきそうであろうことは想像に難くない。
話は戻り、ここでの文章をらくらく書けているのはそういうことなのかもしれない。逆に前々から言っている、しごと周りのことを書きたいなぁというのが遅々として進まないのには、ひとつこのようなことが要因としてあるのかもしれない。まぁ、どんなに想像して寄せてやってみたとて実るかは別で、それが社会や対人というものなのかなと思わなくもなく、だからといっておおきく不満とせず、そのずれを愉しむ呑気さを持ち合わせていたい。そのくらいの呑気さでもって臨み、失敗しながらも進むことなのだろうな。
読んでくださり、ありがとうございます。ちょっと調べていたら「社会学的想像力」という社会学の概念が1960年代のアメリカで提唱されていたようでして、さっとしか目を通していないのですが、なんだか近いぶぶんもあるのかなと思うなどしました。

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