■せばめて回帰

うれしいことに、今年の頭から、読書を細々と続けられている。振り返ればもうすぐ半年、冊数は決して多くないが、なんとなくどこかのタイミングでフェードアウトしていってしまった過去があるので、大収穫だ。

一時期はkindleも用いていたが、結局買いだめてしまうのと、本のように積んでいる量や優先度を可視化しづらく、タブレットそのものがなかば置物になってしまっていたので、思い切って手放した。

当然のことなのだが、本を読んでいる時は本しか読めない。思いがけない通知で集中がそがれることも少なく、本と1:1でいることがでい、それがなんだかいいなと思うようになった。今や、スマホやパソコンは日常やしごとのやりとりにかぎらず、読書、ゲーム、勉強、動画鑑賞等々……、本当にいろいろなことができる。便利さの恩恵をうける一方で、気がそぞろになりやすい質だと関心がぽんぽんと移ってしまい、気づけばどこを見ていたのかわからなくなってしまうときがある。無作為な通知はその最たるもので、できるだけ切ってはいるものの、それでもそぞろにさせる種は尽きない。

思えば、多感な時期に出会った音楽ゲームも同じだった。遊んでいる間は接続から解除され、原始的な運動に回帰できる……といったら言い過ぎだろうか。自分と筐体とが向き合う時間が、今になって尊い対峙だったかもしれないことに気づく。今でも、DDRは見ている暇がないので本当にありがたい。

大人気webまんが『ちいかわ』の中で、ちいかわの友達、ハチワレがカメラを手にいれ、みんなと一緒に遊ぶ話がある。最初は楽しくともだちを撮影するハチワレだが、ずっと持っているとカメラが重く疲れることや、急な雨でカメラを守らなければいけなくなり、雨宿りをしながら「行動がカメラに縛られる~」とこぼすシーンにさしかかる。しばられるといいつつ、そのあとは「でも、楽しいっ」と前向きに捉えており、制限されることが必ずしもネガティブに働くことはないよなぁ、と改めて思わされた。

ほとんどスマホもしくはパソコンに接続(支配ともいっていいのかもしれない)された環境に置かれて早10余年、いまさらもいまさらだが、アナログ的な時間に回帰してみると、その制限がかえっていとおしい。自分の余力にあった情報量や生き方にサイズダウンをしていきたい。

読んでくださり、ありがとうございます。しごとは接続されているので、しばしば関心の対象がうつり、何をしていたのか忘れてしまうことが多々あります。

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