■贄

とかく、人がいないと叫ばれる。人口が減っているので当然そうなのだが、ここ2,3年はとくに実感させられる。自分の職場も人がいない状況であるが、つごうよく「思ったような」人がくるわけではない。人がいっぱいいた時代は、逆にぽいぽい掃いては捨てていいところの人をとるのだろうか。買い手・売り手という概念が身にしみる。よもや企業側から実感するものがなしさ。

生きる人々みなが、場所や時代を選んで生まれることはできない。その場所や時代が享受する功罪は、場合によっては、そこで生きるにんげんたちを贄として起こることなのかもしれないと思う。順をおって考えれば、過去の歴史から今ができているわけで、結果的に贄になっているよね、という考え方はまちがってはいないのかも。

ただ、それで不貞寝していても何も始まらず、はなはだ受動的であるし、本当に贄になってのたれ死んでしまう、可能性が高くなる。前を向き、変革しようと動いていく人々の中に、人間の可能性や強さがあるのかもしれないなと、以前書いた「プルラリティ」や、世界のメディアにとりあげられる人たちの対談や記事を見ると感じることがある。

最初の人不足の話に戻り、ソリューションとして機械による自動化や、海外からの労働力に頼ること、リスキリングなど、いろいろなことがでてきてはいる。一方で、人以外についても、今のアウトカムを維持することがはたして必要なのかなど、事業のサイズやあり方についても検討してみてもいいのかもしれない、など、いろいろなアプローチがでてきて、闊達にやりとりをしたり、実践してみたりして、よりよいかたちをつくりあげていけるとよい。

読んでくださり、ありがとうございます。なかなか、そういった、闊達なやりとりをする関係性をつくりあげるのが難しいのだよな、と感じるところはあります。

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