◆感想:『九条の大罪』第40審「消費の産物」13

今週のお話

家電量販店のテレビから、しずくの事件のことが報道されている。軽度の知的障害と適応障害で心神耗弱状態にあったことが認められて懲役3年と、九条の目論見通りの結果だ。「死んで償いたい」という意思も考慮されたであろう一方で、遺族は身勝手な動機に対して刑が軽すぎると反発しているそうだ。地に落ちたアゲハ蝶が蟻にたかられている。かつては大人気AV女優として上り詰めたしずくの末路をあらわしているかのようである。

カップ麺を待ちながら、屋上で九条、烏丸、亀岡の3人が話している。短期刑をとった九条に感心する亀岡だが、それに対して九条は、しずくの問題は何も解決していない上に、下手をしたら修斗のような、自分大好き利己的人間に使われてしまう可能性もあると話す。亀岡はしゃがんでいる九条に合わせるようにしゃがみ、決して自分を好きなわけではないと思うと反論する。「自分を愛せないから自分を必死で守ろうともがいている」という亀岡に、九条は否定するでもなくやや切なさをまじえた眼差しを向ける。そして、亀岡はしずくも修斗も他人事とは思えず、自分も拠り所を探しているという。そこから、

「誰もが自分の生命力と時間を消費してる。買っても買ってもまだ足らなくて、不安や孤独から目を逸らす口当たりのいい商品をまた買わされる。一瞬の輝きと引き換えに、本来の生き方を絶望の中で見失って苦しんでいる。」

『九条の大罪』第40審より

と、今回のタイトルを回収したようなことが亀岡の口から語られる。

場面はしずくと九条のやりとりに移り、判決宣告後の流れをしずくに伝えている。懲役を終えても、しずくは22歳だ。しずくはすでに、刑務所を出た後にどこに行けばいいのかわからないとこぼす。居場所なんてないというしずくと、街中で拠り所なく1匹ぼっちでいるネズミが、しずくと重なる。九条は、日常を愛おしいと思えたらそれが居場所になり、どんな場所にいても心を満たすことはできると返すが、しずくには響いていない様子である。そして、ミヒャエル・エンデの『モモ』、コルネーリア・フンケの『どろぼうの神様』、サン・テグチュペリの『星の王子さま』を差し入れ、奪われる生き方でなく与えられる人になれるまで、寄り添うことをしずくに伝える。もし行く場所がないなら自分の事務所に来ればいいと九条が伝えると、しずくは震え、静かに涙を流すのだった。

感想

亀岡の人間的な脆さのようなものが、九条の領域をおもわせる屋上でなにげなく語られたシーンが印象的だった。彼女は士業という強者の面をもちながら、双子の妹を鏡として、弱者へのまなざし、並びに彼女自信も不安で揺らぎのあることをこぼしている。そこから自然と出た言葉が、上で引用したところになるのだろう。そして、職業人としての仮面を外した後では、九条とも自然な表情でやりとりができているし、九条も案件のやりとりをしていたときよりも穏やかに描かれている。また別のエピソードで、亀岡をみられたらと思う。

消費については、今が大量消費の時代だというのは、すでにいろいろな人が語っている。モノの消費以外にもこの話では、ムーちゃんと同じ刺青を入れることによる同一化や、AV女優になることで自らを商品化することについても書かれた。商品を買うとか、自身が商品になるというのは、第三者的に定められた評価の俎上に乗ることだ。これまでを見てみると、しずくは常に誰かの評価にさらされてきた。自分がどうしたいといったことよりも、修斗に会うため自身を破壊していった。AVの面接の際には自信をもってくださいと言われた際、「私が一番ほしいものです。常に小脇に抱えたい。」とこぼしている。もちろん、偏差値だとか年収だとかいう可視的な基準や、それこそ「弁護士」といった社会的な権威を要因として自信をつける人もあるが、今回語られていることの自信はそういったレベルではない。しずくはこれらの第三者的な評価に振り回され続け、蟻に食われるアゲハのような状態になったのである。
ICTの進歩により情報の流れも早くなり、ますます社会が多様化していく中で、作中にある「本来の生き方」といったものは、だいぶ見えづらくなってきているように思われる。何をもってその人らしさといえるのか、どうすることが本来の生き方なのかといったことに対して、誰も答えをもたない。それは後で九条の語る「居場所」に繋がると思われるのだが、しずくはこれまで生きてきて、そういったものを見出すことができずにいたし、そのやり方もわからない。そのヒントとして人生において重要なエッセンスをふくんだ3冊をチョイスし、差し入れている。そうして、どんな場所にいても心を満たすことができると伝える。それは第三者的な評価を経由しない、質の異なるものだ。そういったことを、九条はしずくに伝えている。
さらに、刑期を終えて行く場所がなければ事務所に、といった声までかけている。亀岡の話の影響もおそらくあるだろうが、九条は相当しずくに寄り添っている。娘にあげたい本というので、自分の子どもに接するようなきもちに近いのかな。職業人としては入れ込み過ぎているといったことになるのだろうが、本来しずくに必要なことは最後の涙からもわかるように、短い刑期ではなく彼女の居場所なのである。

途中まで書いて忘れていたのを、あわてて完成させた。哲学的にも非常に考える甲斐のあるテーマだったように思う。

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