今年で齢も27になる。しょうじき文章を書くことや本を読むことと真摯にむきあうのがこの歳というのは、おそいのではないかというきもちがいつもくすぶっている。周りの本ずきや文章ずきのひとを見ていて、そう思う。同じものごとでも人によって適切なタイミングは異なるというあたりまえのことを、頭でわかっていても心は呑み込めていない。
こういうときにわたしの中にでてくるのは、「ほぼ日刊イトイ新聞」を主宰する糸井重里さんだ。以前の「今日のダーリン」で、毎日40行程度(らしい!)のエッセイらしきものを書くようになったのは50歳からだという。1998年に「ほぼ日」は創刊しているから、ことしで20年だ。糸井さんもこれをはじめるときに、おそすぎるのではという思いがあったそうだ。でも、一番若いのは今なのだということ、いろいろな人がいろいろな年にいろいろなことをしているのをみて、聞いて、感じて、今まで続いているという。さまざまなことを精力的に行う糸井さんでも「おそすぎるのでは」という思いを抱いていたことが、とても印象にのこった。
この記事で「おきてねむる」は100記事めになる。書くことについての記事がしばらくなかったので、振り返りの意味で今日のトピックを選んだ。100個書いたところではなにも上達しない。それどころか、荒削りな部分や体調の不安定さが、ことばたちに色濃く反映されているのがわかる。糸井さんはかっこいいところばかりではなくて、ありのままの弱かったり、悩んだり、苦しんでいる姿もていねいにかきだしているところがすごい。わたしはたいしたこともないくせに自尊心だけは高く、まだまだ上手にかきおこせない。どうも不調でかっこわるいことは、体調の話につながってしまいがちである。
こんな恥ずかしいことばの集積たちでも「実は毎日読んでいる」と言ってくれるともだちがいたり、ていねいな方は感想をくれたりもして、ありがたい限りである。「今がいちばん若い瞬間なのだ」ということばを胸に抱き、東京の端で細々と書き続けていきたい。
今日も読んでくださり、ありがとうございます。先月の不調以来全体のエネルギーが落ちており、なかなか回復しないものです。若いとはいえ年でしょうか。いろいろやりたいのだけれど。
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