◆交流の質

 遊びでも外食でも 「いってよかった」 ときと「いかなきゃよかった」ときがある。きもちは正直だ。帰り道での機嫌と翌日の調子で、いやでもわかってしまう。反射的に「たのしかった~またね~」とか言って別れ、電車に乗り込んだとたんに「いや、そうでもなかったわ。」と気づいてしまうと、誰に知られたわけでもないのになんとなく気まずい。

 さいわい、最近は「いってよかった」の割合がふえた。それどころか、ほぼ「いってよかった」だ。ありがたい。ところでこの「いってよかった」に共通するものは何なのだろう。

 遊びも外食も他人が介在する。だからといって同じ人と会っても「もうれつにおもしろかった」日と「行かなくてもよかったかも」という日がある。外食だったら「お店の人と話せてよかった」と「ひとりで静かに過ごせてよかった」ときの両方がある。ただえらぶのではだめなようだ。過ごす時間の質も重要らしい。

 人の場合なら話題と場所だろう。他愛もなければ深まらないようなことばかりが飛び交うと、だんだん心が乾いてきてしまう。なかでも、ぐちや世間話はさいたるものかもしれない。「なんで」と知りたがるわたしとしては、あまり意味のないことに興味を見いだせない。時にぐちから深まるトピックもあるが、ごくまれである。場所はそのままの意味で、家、公園、店……適切なところを選ばないとしっぱいする。ここはお互いの価値観が近ければ近いほどしっぱいしづらい気がする。

 いっぽう店の場合、上に書いた過ごし方に加え、そのときの雰囲気も大きく関わっていそうだ。いい雰囲気のなか過ごせれば、おいしいものを食べるのに加えて「なんだかいい経験」がついてくる。こころなしかいつもよりおいしい気もしてくる。いやらしい話だが、カレー屋ならば1杯ぶんの価値が相対的にあがる、と考えることもできる。これは先日書いた「◆咖喱は万物の単位也」と深く関わってくる。市場っぽくいうと外食のたびに「相場が動く」のだ。この相場は安定しているほうがうれしいので、雰囲気の振れ幅が小さい店を選ぶことが増えた。小規模で、静かな店。ときにマイナスに振れてしまうこともあるが、小さい損失は取り返すのもたやすい。

 さいごに両者に共通するのが、行ってみて(会ってみて)「なんだか元気になった」という経験だ。これはだいぶ大きい。これについてはあしたに回す。

今日も読んでくださり、ありがとうございます。自然と「いかなきゃよかった」は遠ざかっていくようで、だから年を重ねるごとに「いってよかった」まみれになるのかもしれません。声をかける人のいること、声をかけてくださる人のいること、まことにありがたいです。

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