きのうに引き続き、手紙の話。
彼女から届いた手紙には故郷のことが書かれていた。彼女は東京から遠く離れた故郷を愛すると同時に、土地の抱える現状を案じてもいた。わたしも旅行したことのある土地で、とてもいいところだ。しかし彼女のように深い愛情をもってその土地と向き合うことはできない。
それどころか、わたしは自分の故郷にそういった思いが微塵ももてない。故郷の森が減って集合住宅になるのを見ても「比較的住みやすいそうだし、土地も東京の中では手頃なほうだしな。」程度の感想である。こうあった方がいいとか、このことが大問題であるとか、そういった意識が持てない。思えばこの土地ではろくな目に遭っておらず、立川のゲームセンターと出会うまでの生活はさながら牢獄のようであった。
自分に持てない感情だからこそ、生まれ育った故郷を愛するきもちをとても尊く感じる。彼女のようになれたらどんなによかったか。彼女のようにあることで苦しいできごとが起きてくるかもわからないが、人にせよ土地にせよ、何かを愛する気持ちというのは金銭には代えがたい財産のように思う。わたしの人生は、全体を通してそういった愛情に乏しい。薄く白い膜のがわたしの心と対象物の間にあり、ぼやけてしまような感覚がある。このことについては今のところ、これ以上の説明がむずかしい。
今さら愛すべき故郷を探すことはかなわないが、いつか帰るところを探して旅行をしていることがある。縁もゆかりもないはずなのにノスタルジーを感じてしまうところに、最終的には居着きたいと思う。立川はだいすきな場所だけれど、街そのものというよりはゲームセンターで過ごした思い出の方が強く、今ではそのゲームセンターもなくなってしまった。当時の喪失感はなかなかのものだったが、それを乗り越えた今、立川に対する故郷感というのはだいぶ薄れているのが現状である。
FF9のジタンと同じように「自分のいつか帰るところは、この地上にはないのかもしれない」と思うことがある。果てのない海を見つめては、存在するかどうかも知れない向こう側の世界に思いを馳せる。
今日も読んでくださり、ありがとうございます。わたしの抱く、死に対する光のようなものはこのあたりから来ているのかもしれません。
コメント
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