◆認知特性の変容に至った経緯

 30年近く生きていると、「自分はできていないと感じているが、周りから見るとできているらしい」とか「その程度のことは気にしないと思っていたが、案外周りは気にするようだ」と、自らのものごとの認知の仕方が周りとズレていることや、極端なゆがみのあることに気づく。それによってコミュニケーションの齟齬が生じることもあったかもしれないし、トラブルもあったかもしれない(が、覚えていない)。ときどき落ち込むことがあっても大きく困ることがなかったので、のんきにもそのままにしていた。

 それが今回の不調で「自分のものごとの認知の仕方を変えておかないと生きていくのがたいへんだな」と初めて思った。一人で暮らすようになったことも、もしかしたら大きな要因かもしれない。一人暮らしは近くに相対的な基準がなくなるので、より自分の軸に偏りやすくなる。ただ、それ以外の理由もあるだろうし、おそらく認知の変容が起こることで今後の生きやすさは相当変わってくるような気がするので、もう少し掘り下げておきたい。
 ちなみに「認知の変容」はわたしのオリジナルではなく、心理の領域でしばしば用いられる用語である。ざっくりした説明として、認知は「個人の考え方や信念、受け止め方のスタイル」である。心理療法の中には、不適切な認知(わたしを例にとれば「やるかやらないかの二択しかないため、評価が二極化してしまいやすい」等)が精神の不調や対人トラブルを引き起こすこともあるという見方から、その人の認知を変えること(変容)によって、生活上の問題を克服していこうとする技法がある。

認知の変容が必要な状況とは何か?

 一言でいえば「社会生活上で支障をきたす」かどうかだった。これまでは大きく困ってこなかったが、今回は自分の認知特性(「やる」と決めたらこだわってしまい覆せないことや、0:100の評価に振れてしまうこと)が社会生活上の支障、具体的には「精神の不調をきたし、仕事のパフォーマンスが落ちる・好きなことをやる気力が起きない」などが、大きな障害として立ちはだかったわけだ。
 発達障害を考えるうえで難しいのがここのところで、特性と障害は必ずしもイコールにはならない(※このことはまたひとつ大きなトピックなので、ここで多くは語らない)。すなわち、社会生活上で問題がなければ、特性はあっても取り扱わないことがある。これは、他の精神障害のように「症状=障害」と考える地平とはずいぶん異なっており、説明するのがたいへんなときがある。話題は逸れるが、特に高学歴群の、知的に高いレイヤーにおける発達障害が気づかれにくい理由のひとつは、本人が環境に合わせて補正する力をもっているため、本人と周りの双方に問題が起こらず、見過ごされやすいことがいえる。「大学まではなんとかなったけど社会人になってめっちゃ困りました。でも実際学校の提出物は出せてなくて結構やばかったです。」というケースは結構みる。
 話は戻り……今回は一人暮らしの初めての不調で、一日寝込んだ日に「まずいな」と感じた。一人暮らしは後ろ盾になるものが少ないので、不調が長引けば長引くほど、生活の維持がむずかしくなっていく。東京に実家はあるものの、戻って療養する選択肢はないため、経済的な基盤を崩すわけにはいかない。認知の歪みがもたらす不調は即、独居生活を危うくする。また、不調になっている時間は自分のやりたいことを存分にできない。それは人生の充実感や生きがいといったものを、自らの認知特性の歪みによって踏み潰していることと同義である。
「あ、それはやだわ。」
 なかなか動かないわたしが、変わろうと思った瞬間であった。
 認知の特性にかぎらず、にんげん、困っていないとなかなか自分のよくないところを直そうとしないものである。「推薦に使う内申がかかっててまじでやばい」というタイミングにあっても勉強する気が起こらず、提出物もなくすような輩だったので、さもありなん、という感じである。そう考えると、早いタイミングで体調が崩れてよかったかもしれない。少なくとも、今後の人生を自己の認知によって踏み潰してしまうリスクは大幅に下がった。

どのように自己の認知を変えていくのか?

 その人にとって「ここぞ」というタイミングで認知の変容をはかるときに、どうしていけばいいのか?選択肢としてはふたつあって、自分で変えていくか、専門家と一緒にやっていくかである。これは自分の能力やそのときの余力をみながら選んでいいと思う。わたしは、昔カウンセリングを受けていた頃を思い出し、たしかにカウンセラーは受容的でありがたかったような気がするのだが、彼/彼女から受け取ったことばそのものによってよくなったという感触がなく、ここ一週間でだいぶ考える気力も戻ってきたので、自分でやった。
 実際に変化が起きていないため予測の域を出ないが、その人に「入る言葉」を用いて、「少しずつ」取り組むほかないと思う。

 「入る言葉」というのは聞き慣れないと思うし、実際わたしもはじめて打った。人には「入りやすい」言葉というものがあって、たとえばわたしは幼い頃よりゲームに親しんできたので、「にげる」コマンドや「縛りプレイ」など、ゲーム関連のタームを使うと生活や仕事に応用しても理解がスムーズだ。専門家と一緒に取り組む場合は「入る言葉をくれる人」を選ぶ必要がある。入らない人とやりとりをしてもさほど実りはない。「入る言葉」はその人の興味関心に基づいていることが多いので、好きなことや得意なことを話せるような関係を作れるような支援者がいいと思う。
 また、一気に変化させようとすると順応するだけで疲弊してしまうため(とくに発達障害がベースにある場合、ルーティーンが変わることや急な変化に対応することは相当なエネルギーを要する)、少しずつ進めていくほうが心身ともに安全である。「少し」の具合は人によると思うが、わたしの場合はまず生活の中で行っている活動を「すべてやるべき」にしないことから徐々にゆるめ、新たなルーティーンを確立していければよいと思っている。

 以上、もう少し掘り下げていけるような気もするが、現時点ではこのあたりで疲れてしまうのでここまでにしよう。

 読んでくださり、ありがとうございます。障害と特性はかけざんだと師匠が言っておりました。

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