◆くらしの構造改革、せまる。

 精神障害とそれを取り巻く世界、ひいてはその支援について知ることが楽しく(楽しく、というのは果たして適切な言い回しなのだろうか?といつも思うけれど、なかなかそれに替わることばが見つからない)、今は幸いそういったしごとをさせてもらえているものだから、ほかのひとにくらべて、しごとと生活が直結している自覚がある。それで困るのが、他のやりたいことが全部あとまわしになってしまうことだ。あれだけ最優先されたアトリエも料理も読書も文章を書くことも、すべて置き去りになってしまっている。

 緊急事態宣言が発令されていた2か月間は、そういった人生もありかもしれないと考えていた。しごとは楽しいし、しごと以外のすべて(ようするに生活だ)を肩代わりしてくれる誰か、もしくは何かがあれば、そうした道を選んだかもしれない。だが一方で、しごとがわたしのすべてをまかなってくれるわけではない気もしている。生活をめぐる料理、インプットの読書、アウトプットの文章、しごとの地平で決して交わらないであろう、アトリエというアジール。ふしぎなことに、それらすべてがしごととつながっている感覚もどこかにある。

 以前、支援のしごとは型どおりにみえて案外クリエイティブな側面があることを書いた。今、できていないことを見てみると、クリエイティビティに満ちた活動が多い。そういったものへの好奇心をみすみす見逃してしまうのもなんだかもったいない。すべてが駆動して、連動してさらにいいものができたら、きっと最高におもしろい。
 そんな根拠もない思いつきから、料理も読書も書くこともアトリエも、どこかの時間にねじこみたいというきもちでいっぱいだ。前職ほど時間的な猶予はないので、前職のルーティーンは通用しなくなっていて、抜本的に時間の組み立て方を変える必要を感じている。また、しごとがおもしろすぎて、家でもやってしまうところがあるので、それについてもなんとかしたほうがいいのか、そのままでいいのか、考えていく必要がある。転職してそろそろ半年、ようやく日々のくらし全体を俯瞰する余裕が出てきた。よりおもしろく、自分の力を活かせる時間になればこれ以上のよろこびはない。

 読んでくださり、ありがとうございます。落合陽一さんの提唱するワークアズライフという考え方ですが、到底実現できていないにしても、全くわからないわけでもないのですな。すきなひとと一緒にいる時間はたしかに休みの日なのですが、どこかでしごとでの考え方に活かされる部分もあり(ときにその逆もあり)完全に分断されないで、すべてはつながっている。からっぽになる時間もありますが、そのときがほんとうの「休み」なのでしょうね。

コメント

  1. […] を出る時間が違ったり、仕事の終わる時間が最大5時間ちがったり、週休2日も1日がひとつと半日がふたつというトリッキーな状態になっていて、難しくなっている、というのが前回の話。 […]

WP Twitter Auto Publish Powered By : XYZScripts.com