先月から引き続き、読書ができている。手が勝手に書物をもとめ、ひまがあると開くようになってきた。いい傾向である。

他方で、こまったこともでてきた。じぶんのあほさに気づき、小説を書けなくなってきているのである。書きたい気持ちはあるが、自らの無知を、本を読めば読むほど痛感してしまう。ときおり「もう読む方に徹してもいいのではないか」と思ってしまうことすらある。

しかし、わたしが書かなければ、わたしの創作世界のいきものたちは停止してしまう。 彼らは「書かれる」ことではじめて、外界で息をする。 全くのオリジナルなどこの世には存在しないとよくいうけれど、他人がわたしの創作世界を書いてくれることはないし、仮に書いてもらえたとしても、わたしの思い描くそれとは異なるかもしれない。

自分のあほさ加減に呆れて彼らと離れてしまうのは、あまりにもさびしい。わたしはこどもを持ったことはないけれど、自己と創作世界との断絶は幼子が親と未来永劫会えなくなってしまうかのようなかなしみがある……気がする。

ここで筆を折らずに書き続けられるかどうかが書き手としての正念場なのだろう。「創作世界のいきものたちを無責任に殺してはならない……。」奇妙な責任感も一方でくすぶっている。

そんなことを思いながらも、このエッセイは毎日続いている。いったい小説と何がちがうのだろう。エッセイをたくさん読んでも、わたしが書かなくていいのでは?というきもちにはならない。生活様式趣味嗜好特性問題意識、エッセイにはわたしのすべてが詰まっている。それにそもそも、書くこと自体がたのしくて、すきだ。だから書いている……のだろうか。

しかし生活様式趣味嗜好等々を表現するのは、小説もおなじだ。エッセイのように捉えられないのは独創性のなさなのか、筆の拙さなのか、知識のなさなのか、その全てなのか、一体なんなのだろう……。

今日も読んでくださり、ありがとうございます。「なぜ書くのか?」という問いにしっかり向き合う必要があるのかもしれません。むろん第一に「たのしい」ですけれども、それだけではどうも論破できないようすがあります。