上海や北京でたくさん働いてきたものの、業界が傾くなどして、仕事が苦しくなった結果、景徳鎮に移住して金銭や時間に追われずゆったりと過ごす生き方が中国の若者の間で話題らしい。景徳鎮といえば焼き物の名所だが、そこで重い思いの作品を習い、作るのだという。移住する若者の大半は都市のエリートたちだが、「自身の人生をどうしたいかは自分で決める」と、結婚や稼いで成功するといった、国や世間が想定する選択肢を選ばなかった。短いインタビューもいくつかあるが、「自分がどうしたいかを決める」というのが印象に残った。
一方で、そんな若者たちを「景漂」と呼んで揶揄する向きもあるようだが、「漂う」なんて旅人のようでロマンがあるし、場所も景徳鎮だし、全然言われても嫌じゃないな。実際、そういう生き方もすてきだ。老いて自由がきかなくなってからじゃあ遅いから若くて動けるうちに好きなことをした方がいい!というのをエッセイにしていた芸能人がおられて、こんなにお金も名誉もある人がそう思うのなら、一般人は余計にそう思うだろうなと思った。今の生き方を捨てられないのには当然、今そうしている自分の選択があるからだ。配偶者も子もないのに、何をそんなに、という気持ちが、何かにつけて揺れる。景徳鎮のように「ここ!」と惚れ込んだ行き先を持つわけではないが、自分の心の奥底には、遠くきこえる海の残響がある。目を開けると消えてしまう。
さて、景徳鎮は移住してくる自国民や外国人が増えており、作品のテイストにも影響を与えているのだという。このように、「移住してくる人間」がメジャーになると、そこは移住があたりまえになり、現地の人も慣れてくる。そのうえで、元あった文化に変化の風が吹いてくる。移住してくること自体の是非はあると思われるが、滅びずに変化しながらそこにあることはひとつの生存だ。人は漂い、場は移ろう。そうしてずっと残っているものが今も生きているのかもしれないと思うと、「国の役に立っていない」(国家主席が景漂のような事態にたいして投げかけた言葉だそうだ)こともないんじゃないかなとほんのり思った。
読んでくださり、ありがとうございます。ぎゃくに留まりつづける一族やひとびとの話も特集してほしいかもしれません。
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