大学の同期と文芸同人をやっている。去る5月の文学フリマで合同誌を出し、ありがたいことに完売したという。
Tumburで、ひとつひとつの作品に対して感想を寄せてくださった方がいらしたので、ここに紹介する。
ブランペイン彗星の足跡 【感想】かもめソング
感想の書き方に慣れていて伝わりやすく、言葉に対してたいへん真摯な印象を受けました、ありがとうございます。
拙作『Augen-生まれおちた子-』においては、家族の問題は一筋縄ではいかないことの方が多く、すっきりと終わらないように努めたつもりであった。ゆえに、この方の解釈はわたしの狙いと一致している、といえる。文章で人にものを伝えるのは難しいから、わたしの拙文でも、大枠が伝わっていたことにまず安心した。作者は読者に作品を委ねたら最後、読者の読むように読んでいただくほかない。互いの意図のずれによる発見があっておもしろいこともあるが、価値観や見解が一致するうれしさもある。社会の中で生きし者だからか、人との接点が類似から始まるとなんだか親近感が湧く。
上でも少し触れたが、わたしの文章は世辞にも巧いとは言い難く、書いたあとに気に入らないことも多い。少し脱線するが、この「おきてねむる」カテゴリを始めたのも、文章を書くことに慣れたかったのが大きい。そんなことだから、人様から感想をいただけるなどということはそれはもう、皆無と言ってよい。
気に入ろうと入るまいと、作品を生んで世に放り出せばみな等しく自分の子である。作者の生きてきた背景や価値観・美しいとおもうものやその反対のものたちは、少なからず作品ににじみ出てくるし、責任も生じる。どこかしらに作者の記憶の断片──DNAといってもいいのかもしれない──が配列されているように感じるのだ。自分で生みだすものはどこか自分と似ていて憎いところもありつつ、最終的にはいとしさが勝ることが多い。わたしは意識が低めの人間なので、作品の巧拙はともかく生みだしたあとは「書きおえたこと自体」にかなり満足してしまう。しかしいざ評価や感想をもらってみると、やはりうれしい。他人から評価されるために小説を書いているわけではないが、滅多にそんな経験をしないものだから、ひとつひとつをスクリーンショットで保存して、そのときの気持ちを忘れないようにしている。
生まれる子達の不格好さに羞恥を覚えつつも、こりずに作品を生み落とし続ける。恥を忍ばず作品を放つようになれるまで、まだ当分かかってしまいそうだ。しかしその不格好も今の自分の器量にちょうどいいのだろうと、孤独な文字たちと寄り添って眠る。
コメント
[…] 。まいにちエッセイこと「おきてねむる」を始めて間もないころ、自分のつくった作品は自分のこどものような感じがするということを書いていたのだ。たしかに店主にとっての作品はカ […]
[…] ちょうど1年前、毎日文章を書くと決めたころに「いとしき子を抱いて」というエッセイを書いた。ちょうど文芸同人誌を発行したあとで、小説の感想をいただいたうれしさをしたた […]